2012年01月03日

赤いドレスの少女

年末から、寝る時間がメチャクチャになっている。昨夜は何時に寝たんだろう?
何度も目が覚め、トイレにいったり、少し仕事をしたりと、全く落ち着かない。
そんな夜明け、妙にはっきりとした夢を見た。

僕は、何処かの教室に行こうとしていた。僕が生徒なのか、教師なのか、それとも別の用事なのかは分からない。昭和20年代の小学校の校舎のような木造の3階建ての建物があり、その3階に僕の行くべき教室があると、僕は分かっていた。
僕は校舎の周りを回って建物の入口を見つけ、その中に入り込んだ、そして教室の中を見てみた。

教室の中は犬でいっぱいだった。一つの教室に20匹以上の犬がいて、寝そべっていたり、噛み合ったりしていた。

隣の教室に行ってみると、そこも犬がいっぱいいた。小さな犬は大きな犬たちに噛まれ殺されそうになっていた。

どうも、その建物の部屋は全部犬がいるようだった。僕は、隣の建物にいくところなのに、間違って別の建物に入ってしまったらしい。

僕はこの建物から逃げようと、廊下を歩いて行った。妙に走ったりすると犬が追いかけて来るかも知れないから、ぼくはそっと早足であるいた。僕の他に、だれも人間はいなかった。建物のあらゆる部屋に犬がたくさんひしめいていた。

僕は廊下の端まできた。そこには階段があった。僕は階段を下りた。
2階へおりるその踊り場の所に、少女がひとり倒れていた。少し驚いたような目をあけて、静かに少女は倒れていた。足元に獰猛そうな犬が一匹いた。

僕は、そっと、犬を追い払いながら少女を抱き寄せて起こそうとした。少女は西洋の人形のようなドレスを着ていた。痛いともいわないし、怯えているようすでもない。

少女の左足をみると、膝から少し上で、あしがすっぱりと切断されていた。そしてステンレスのような円盤に丸い金属の棒がついた器具があり、足の切断面ちかくにぶら下がっていた。切断面は真ん中に白い骨が見え、その周囲はあかい肉がそのまま見えた。

少女は、左足の切断されたところに、金属の器具を付けていたのだろう。そこを犬に襲われて、その器具が外れかけてしまったのだ。

僕は、もう大丈夫だよと言いながら赤いドレスの少女を抱き起こそうとした。どれすにはふわりとした白いレースが幾重にもついていた。

白い太ももの下の方の足の断面は、本来なら金属の円盤とぴったりくっついていなければいけないのだろう。そうしないとあるくのに不便だ。だけど、どうしたら、その金属を足に固定することができるのかわからない。
木造の古い校舎のような建物の踊り場で、僕は困りながら、少女を抱きかかえている。

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2011年12月14日

選択

夢を見た

ある日、突然全てがむなしくなった。何をどう判断してよいかわからなくなった。相談すべき人も、回りに誰1人いなかった。

これはもう、自殺するしかない。僕は、そう思った。身の回りを整理した。首に掛けるのにちょうど言いロープも探した。ロープを縛り付けるのによさそうな手すりも決めた。

でも、ほんとに自殺しても良いのだろうか。「絶対に自殺してはいけない」という事を、前に誰かから言われたような気がした。今日は土曜日だ、あしたクリニックの先生に会って最後の相談をしようと思った。

入院するのがよいとも思った。自殺遂行率が高そうな患者には入院治療をすすめると、どこかのサイトに書いてあった。

日曜の朝クリニックへ電話して予約時間をとってもらった。その時間に僕は先生に会い、自殺しそうでしかたがないのです。入院するのもよいのではないかとおもうのですがどうかと思いまして、相談に来ましたと先生に言った。

先生はしばらくじっと腕を組んで僕の目を見て考えていた。そして、最後にいった。「あなたに最後の選択をしてもらわなくてはなりません。とてもよく効く薬があります。これは、毎晩0.5ミリグラムを2錠飲んでいましたね。これを、朝昼晩1ミリグラムの錠剤を飲むようにしましょう。きっと気持ちが安定すると思いますよ」

僕は、その程度のことならば決断するほどのことではない、そうします、と簡単に言った。薬の量が3倍になるだけだ。

その午後から僕はその薬を1日3回1ミリグラムずつ飲むようにした。

僕の気持ちはとても安定した。すくなくとも死んでしまおうなどとは思わなくなった。

しかし、妙に体が安定しなくなった。

真っ直ぐ立っていても、自然と体が後に倒れてしまうようになった。真っすく前に歩いて行っも、次第に左側の壁に体がぶつかってしまうようになった。ただ、あるいているだけなのに、足がもつれて転ぶことが何回も起こるようになった。

そして、目の前で泣いている人がいるのに、心が何も感じなくなった。その人が泣いている理由は前にもまして心の奥が透けて見えるようによく分かるのだけれども、何も感じなくなってしまった。

また、自分の心がとても大きく変わってしまった。どこがどうとはっきりは説明がつかない。前よりも明るく人と話せるし、死にたいとも思わないし、怒りっぽくなったわけではない。だけど、なにかが変わった。

僕は、ほんの少し、薬の量を多くした。それだけで、ある晩思い詰めて死んでしまうことを避けることができた。だけど、ほんのちょっとしたことで、すぐ転ぶようになり、だれかが目の前で泣いていても、なにも感じない人間になってしまった。

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2011年12月11日

市民広報誌

夢を見た。

朝、郵便受けに市民広報誌が入っていた。普段は、ちらっと見るだけで捨ててしまうんだけれど、その日は何となく何ページかをめくってみた。
そうしたら、短い1ページものの連載をしていた女性の人が交代をするお知らせが出ていた。2年ちょうど書いてきたけれど、こんど新しいやはり女性に執筆をかわりまるというお知らせだった。

夢の中のことだから、具体的にはよくわからないけれど、前の人のページは、丸くなっていて、真ん中がピンで留めてあり、ぐるぐる回って読むようになっていたようなっていた気がする。新しい人はどういうページになるんだろうか。

そのときには、「あ、執筆者が変わるんだ」としか思わなかった。
だけど、そのうちに、あちこちの広報誌や雑誌で「執筆者が変わることになりました」というお知らせが入っているようになった。
僕は、そのころ、雑誌も新聞もテレビもほとんど見ていなかったから、あまり気にはしていなかった。むしろ、新しい若い人に、そういう発表の機会が与えられることは良いことだとおもっいた。


でも、いま考えれば、それらが、全ての始まりだった。

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2011年11月08日

近所のおじいさん

うちの近所に、新聞の集金に毎月やってくるおじいさんが住んでいた。うちの前の道を、真っ直ぐ歩いて行ったところに家があった。
最近しばらく、そのおじいさんを見なかった。
どうしているんだろうと思っていたら、今日、その家が取り壊されて、どんどん更地になっていった。
あのおじいさんはどうしたんだろうか?

そう言えば、これもうちの近く、すこし離れたところに、大きな立派な鼻のおじいさんが住んでいた。家には有名な保険会社の取り扱い支店みたいな看板が付いていたから、現役の時にはその会社の偉いひとだったのかもしれない。
そのおじいさんは、杖をついてよく町内を歩いていたが、いつのまにか姿を見なくなった。
そして、その家も、取り壊されて更地になり、新しい家が建った。

僕の住んでいる町は、昭和30年代に分譲された住宅地なので、一軒一軒が結構広い。そして、それが建て替えられる時には、大抵2軒の家になる。そして、そこに住んでいた人たちは、どこかへ行ってしまう。

新しい家に引っ越してくる人たちは、たいてい若夫婦で、小さな子供がいる。そして、その子供達もいつのまにか大きくなり、結婚してその家を出て行く。

この20数年の間、僕はそんな町内の移り変わりを見てきた。
ある人はいつのまにか居なくなり、新しい人が入って来て、その子供がまた何処かへ出て行く。

この町内はある時期、老人ばかりの町だった。そして、そこに若い人たちが入って来た。
最近は町内で、子供の姿を見ることが多くなった。小学生ぐらいだろうか。でも、きっと、あっという間に彼らも大きくなり大人になる。そして、この町を出て行き、またこの町は老人の町になるのかもしれない。

僕はと言えば、この町に住み始めた頃はまだ20代だった。そして30年以上が経った。
町内が変わって行ったとかいっているけれど、人から見たら、あそこの何やっているかわからない男の人は、いつのまにかおじいさんになったなあ、とか思っているのだろう。
そして、あそこの家も、子供が出て行ったなあと、言われているのだろう。

そう、あの、新聞の集金に来ていたおじいさん。
あのひとは、どうしたのだろう? 
どうなったのか知らないくらい、僕の町の人たちはお互いに遠いところにいる。
それでいて、いつもお互いをそれとなく見ている。

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2011年08月07日

私はピアノ

 夢を見た

 学校の講堂のような所で、僕らは何かの催しの準備をしている。
 僕の作品が何点か置いてあるのだが、それらはまだ組み立てられずにいて、バラバラになっている。他の人の作品もあちこちに置かれている。
 これらは、グループ展になるのだろうか? どうも、よくわからない。

 展示に部品が必要な事が分かり、僕は表に出て、車で何かを買いに行こうとした。

 所が、僕の軽自動車はフロントガラスが割られ、中に枯れ葉がいっぱい舞い込んでいる。それらをどかし、僕はとにかく買物に行ってきた。


 その展示場のような講堂は、デパートの売り場に繋がっているようだった。女の人に連れられて講堂の隅を歩いて行くと、小さなドアがあり、そのドアを開けると、なんとデパートのフォーマルウェアの売り場だった。店員の人もいたが、特に驚いた顔をしていない。

 僕は、いろんな準備をして講堂のような展示場にもどった。
 しかし、なにか雰囲気が変わっている。
 あんなに沢山部屋中にあった作品はきれいにかたづけられている。奥の空間に全部かたづけたのだろうか。僕は、電動ドライバーで、プラスの木ねじを打ち込む練習をしていたんだけど、あまり、もう薬に立ちそうにない。

 そして、講堂には椅子が沢山並べられ、町内会のおじさんという雰囲気の男の人が大勢すわっていた。
 どうも僕は「私はピアノ」の弾き語りをしなければいけないらしい。

 僕はピアノを人前で弾いたことはないし、そんな歌を歌った事が無いので、大いに困った。しかし、逃れられる雰囲気ではない。

 僕は、イントロのキーを探りながら、イントロのメロディーを少し弾いた。何とかなりそうな気もする。そのうちに観客が手拍子をうちながら「私はピアノ」を歌い出した。

 しょうがない、僕はピアノを弾きながら、「私はピアノ」を歌った。

 作品を展示する話は何処へいってしまったんだろう。車はだれに壊されてしまったんだろうと、考える事はたくさんあったのだが、とりあえず、僕は「私はピアノ」を一所懸命歌い続けた。

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2011年07月17日

車を取り囲む男達

夢を見た。

僕は車を買おうとしているらしい。家族は後部座席に乗っていて、助手席にはディーラーのお姉さんが乗っている。発進しようとしたら、若い黒い制服を着た10人ほどの男達が、車の前を取り囲んだ。

車をぶつけてはいけないと思い、そろそろと走り出したが、明らかに避ける意志はなく、僕の進路を塞いでいる。それどころか、何人かが振り向いて、車の車体に手を触れようとしている。

黒い制服は、襟のないボタンも見えない奇妙なもので、前の合わせ目だけが灰色線が入り、あとはまっ黒の色だ。無表情で何人かが、こちらを見ている。

僕は、これは許してはいけないと思い、車から降りた。そして直接手を出してはいけないと思い、その男達の中の1人に離れた所から精神を集中すると、その男は8メートルほど吹っ飛んで地面に叩き付けられた。そして、まったく動かなくなった。

僕は、これで良いのだと思った。そして、残りの男全員に精神の何かを力を送ると、男達全員だ周囲に広く吹っ飛んで地面に叩き付けられた。皆動かなくなった。

僕は助手席のお姉さんの顔を見た。

お姉さんはごく普通の顔をして座っていた。

僕は、これで良いのだと思った。男達は、たぶん、死んでしまったのだと思う。

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2011年06月16日

美容院

 美容院へ髪を切りに行った。床屋さんでもいいんだけど、以前近所の床屋さんにいって、あ、僕はそういう人間ではないんですけど・・・と思うような、立派な会社員風の髪型にしっかりドライヤーと櫛で見事に仕上げられたことがあって、それ以来床屋さん、理容室は避けている。

 初めて行った店で、担当してくれた人は若い女性だった。なんだかんだ話してみたら、地元の人で、あとでパンフレットみたいのを読んだら、僕の子供と同じような年代の人だった。

 一度近くの店に行って、あまりの下手さに呆れたことがあって、地元の店で何処がいいか考えていたんだけど、またこんどもこの店に行こうかなと考えている。

 

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2011年06月15日

正直に言っていいのか

 入院退院以来1ヶ月以上たった。無事にやっております。

 でも、なにか大きく変わってしまった。

 人の気持ちに合わせて何かを言う、という事が出来なくなってしまった。

 愛想なんてもともと無いんだけど。

 授業をしていて、以前は「これは1年生だから、それなりに甘く接しよう」という気持ちが持てた。でも、最近は、そういう気持ちになれない。

 相手は、どういう考えてこの教室に座っているのかわからないが、この学生は本気でやっているのか、作品の出来は良いのか悪いのか、ということが、ストレートに見えて、そう反応してしまう。

 だから、出来の悪い作品については、「まあ、ここは良いよ」という言い方ができない。前は、とにかく、良いところを「褒める」というやり方でやって来たんだけれど。

 だから、おそらくだけれど、「本気でやっていない学生」に対して、ものすごく冷たいと思う。そうで無ければ、大学にいては行けない。来る意味がないと思ってるから。


 なんか、いやな予感がするんだ。

 僕は、もの凄く短気で感情が激しく、頑固で評価の厳しい人間なんだ。そもそもは。

 だけど、それを隠すことで、今までなんとかやって来た

 そのタガが、どんどん崩れようとしているのが、わかる。

 年とって、好々爺になるんじゃなくて、頑固などうしようもない性格になっていきそうな気がする。



 大学の3年生や4年生が、とっても良い作品なんて、そうそう出来るわけ無いじゃないか。それを言ってはいけないのか。

 どうして、それを言うと、学生達は不機嫌になるのか。

 褒めて欲しくて作品を作っているのか。

 でも、苦労して作った作品を「これはここが良くない」としか言われなかったら、気分は良くないようねえ、それもわかる。

 でも、制作というものは、それだけ厳しいものだろうに。

 そこは、どんどん譲れなくなっている。

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2011年05月30日

胸の痛み。心の痛み

 胸の痛みと言っても、精神的なものではない。ホントの痛みのこと。

 今日、退院以来の診察を受けるために病院へ行った。車で行った。退院後、胸に痛みを感じることは全く無かったんだけど、病院に近づき、最後の信号を曲がるときに、胸に痛みを感じた。

 僕は、何かとてもイヤな思いがした。

 確かに僕は、心臓の血管が塞がってしまい、その処置をした。それに間違いはない。だけど、かなり前から胸に痛みを感じることはあり、検査して貰い「狭心症」と言われていた。その部分が今回塞がってしまって「心筋梗塞」になったわけだ。そして、それは、治った。

 だけど、まだ、胸が痛い。

 入院中、何度かそういう事があった。胸が何かの時に痛くなる。

 それは、思いかけないタイミングで看護婦さんに声を掛けられたりしたときだったり、待ちにまった食事が出て来て、ご飯の最初の一口を口に運んだ時だった。

 僕は、その時も思った。この痛みは何なのだろうと。

 退院の時先生に聞いたら、痛みというのは、色んなケースがあり、これは分からないと言われた。ただ、心臓の血管狭窄から来るものではないでしょうと言われた。だって、それを治したんだからそうだよね。

 でも、胸が痛い。

 今日になってだけど、僕は、自分の胸を丁寧に触って、あちこち押してみた。そうしたら、かなりの痛みをそこに感じた。筋肉痛に近いものだ。

 僕は気になって、体のあちこちを押してみた。そうしたら、首や脇腹や足や、あちこちに痛みを感じた

 僕は、もう、わけが分からなくなった。そして、思った。痛みを捜してあちこち触りまくる。これを繰り返していったら、精神が狂ってしまう。

 
 入院中に胸が痛いと訴えたときに「最初の痛みを10とすると、今どのくらいですか?」と何度も聞かれた。僕は、その度に「えーと」と考えて、「8ぐらいです」とか「2か3ぐらいです」とか答えた。最近の医師は痛みをそのように患者に聞くらしい。そのための「痛みのスケール」の道具さえあるということだ。

 僕は、今の胸の痛みは幾つぐらいなのかと考える。そうすると1にもならないほどの痛みだとわかる。それを心配するのか、年とればそのくらいの事は体のあちこちで起こるさと考えるか、そのどちらかだと思う。


 体の痛みではなく「悩み」のような「心の痛み」も、それと同じかもしれない。

 このところ何度も書いたように、僕は何か「心の痛み」を抱えている。(同情してもらいたいわけではありません。しつこいけど、それは書いておきます)
 その「心の痛み」は幾つぐらいなのかなあと考えてみたら、基準となる「痛み」がどこにも無いことに気が付いた。

 「20歳の時に大失恋をしまして、自殺未遂までしたんです。あのときの心の痛みを10とします」というような、はっきりした心の痛みの基準は僕にはない。

 おそらくだけど、「心の痛み」の基準というものを持っている人は少ないのじゃないだろうか。だから「今の心の痛み」が、いつも最大値に感じてしまうのではないだろうか。

 そこまで、僕は、今日考えた。僕としては上出来だ。

 少し気持ちが楽になった。

 

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昼寝

 病院から戻ってき、あまりに眠かったので少し昼寝をした。

 短い間だったけどいろんな夢をみた。幾つかの画廊へ行った。女子美の年取った女の先生が出てきた。もの凄いきつい事をいう女の人に責められた。

 知っている人が大勢出てきた、重い言葉をたくさん交わした。熱いシャワーを浴びた。若い友人の部屋を訪ねたら、部屋にいた4人の男達があわてて何かを隠した。

 夢の中で、僕は何度も泣いた。

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2011年05月28日

なぜ悲しい

 泣きたいことについては、書き足りない。というか、上手く書けていない。そもそも書きようが無い話なのかもしれないけれど。

 どうしてなのだろうか、全てが「悲しい」方向に片寄ってしまう。

 地球ゴマも、万華鏡も、入学式の思い出も、みんな悲しい。

 考え方を変えてみよう。

 地球ゴマも、万華鏡も、入学式の思い出も、みんなキラキラするほど幸せなものになる。

 だけど、今、全てが悲しい方向に行ってしまう。

 どうしたらいい?

 結論。単純なことだ。

 もっと、強くなれ。

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泣きたい

 実は、今、ものすごく泣きたい。毎日そう思っている。

 何か悲しいことがあるのかと言えば、これが悲しいですと、はっきり言えるほどのものは無い。今、この時代この日本で、僕なんかよりさらに悲惨な状況の中で「頑張って」暮らしている人がたくさんいることは知っている。

 前にも書いたけど、親が子供が、友人や愛する人が、目の前で死んでいったという人が、大勢いたことも分かっている。

 今の、社会が不安なのか。原発が不安なのか。放射能が不安なのか。実は僕は、それについてはあまり心配していない。心配していないというよりも、そのような事は意識の外にある。それはいけない、もっと今のこの「間違った」世の中に意見を発しなければいけないという人もいるかもしれない。お前、その態度は無責任で卑怯だという人もいるかもしれない。でも、何といわれようと、僕は今、この社会の出鱈目な出来事の多くに、関心が持てないでいる。

 自分の仕事のことなのか。それも、違う。こんな僕でさえも、親切に支えてくれる同僚がいる。友人も大勢いる。そのことは、あらためて今回の病気をきっかけとして本当にわかった。

 作品の制作の事なのか。確かに、僕は今回の病気での入院などで、作品制作から遠ざかっている。でも、それだって、短い間のことだ。やろうと思えばいつだって仕事場に入って制作ができる。

 作品の内容については、それは、僕が選んだ生き方だ。それについては、かんがえる事が山ほどあるけれど、悲しいとか泣きたいとか言ってはいけないし、言うつもりもない。

 だけど、毎晩、夜になると、泣けてきてしょうがない。もう、堪らなく悲しい。

 僕は、こんなに悲しいんですと、人に情けを請うのは良くない。そのために僕は、いまこれを書いているのではない。僕は悲しんでいるんだよと、同情してもらいたいわけではない。

 みんなよく考えてみようよ、楽しいことなんか今の世の中、一つも無いじゃないかと、みんなを巻き添えにして、おかしな精神状態に入って行こうというわけでもない。



 吉田拓郎が「男にも泣くときがある 部屋のドアに鍵をかけてね」と昔歌っていた。その歌詞を書いたのは松本隆だが、今僕が書こうとしていることは、それとは少し違う。

 この歌は「ローリング30」の中の「無題」という歌で、吉田拓郎も松本隆も、この歌を聴いていた僕たちも20代だった。そのころの「男にも泣くときがある」という詩を、僕は「そうだよなあ、そういう事もあるよなあ」と聴いていたけれど、それは、なにか甘さのある、センチメンタルな空気を含んだ「男と女の事」を予感させるような雰囲気のものだった。

 だけど、僕が今感じている「泣きたい」という事は、そういう甘いものではない。

 僕は今年58歳になった。ほとんど老人だ。還暦目の前じゃないか。

 若い頃58歳の老人なんて、僕は全く相手にしていなかった。「老人」は確かにいた。世の中にいっぱいいた。学校の中にも、そういう歳とった先生もいた。だけど、そういう「老人」は、僕の眼中に無かった。

 そんな老境の僕が、毎日「泣きたい」と感じている。

 みんなは、毎日、そういう思いはないのだろうか? 何かでそれをごまかしているのだろうか。

 あるいは、そんな事を考え感じている「大人」は、居ないのだろうか。いちゃいけないのだろうか。

 


 入院中、僕はこういった「泣きたい」とか「悲しい」とかいう感情はあまり無かった。僕は、自分の事を考えるので精一杯だった。早く治りたいと思った。そして、あとから僕の病気の状況を聞いて、ああ、僕は運が良かったんだと思った。その運を支えてくれた多くの人に感謝もした。

 そして、僕は「社会に復帰」した。大勢の人が心配していてくれていた事が分かって、僕はそれについて、まさに泣きたいくらいに有り難く思った。僕はこの歳になるまで、随分ひねくれていたんだなあとまで思った。

 いろんな人に、お礼を言い、感謝し、状況を報告し、心配ありません、もう大丈夫ですと話した。

 そして、言うべき人に全て言い終わったと思った時から、この悲しさがやって来た。泣きたい気持ちが抑えきれなくなってきた。



 それが、何なのか、どこからくるのか僕には分からない。だけど、なんとなく見当はついている。それは、何か本当の事が分かってしまったということだと思う。また、何が始まるのか見えてしまったことだと思う。

 僕だって、長年社会人を一応やって来た。そう道を外れたわけではない。かなりおかしな所もあるのは自覚しているが、まあ、ちゃんと生きて来た。

 だけど、その「ちゃんと生きて来た」という部分が、相当に無理をして、嫌いな言い方がだけれども「自分に嘘をついてきた」ということが、すぱっと分かってしまったのだと思う。

 それが、具体的に何なのか、もっと考えていけば、多分「これと、これと、これだ」と言えるのかも知れない。だけど、それを今、僕は言うつもりはない。そこまで考える必要はないし、考えるべきものではないと思う。

 だけど、僕は、それを知っている。

 知っている、なんて今になって言ってはいけないかも知れない。「お前、普通はみんなもっと早く知ってるんだよ。お前が馬鹿なんだよ」という事なのかもしれない。でも、僕は僕でしかない。みんなの人生を生きて来たわけではない。
 
 20代の時に感じた「男と女の事」は、今だって感じることは出来る。だけど50代の後半になって感じる「男と女の事」は、その重さが違う。重さというより悲しさが違う。「男と女の事」ばかりでなく、あらゆる事で本当はそこにあった重さと悲しさが、今になって見えて分かってきてしまったのだろう。そして、それを実は言うことができるという事が分かって来たのだろう。それは、本当の自分の気持ちということなのだろうか。

 「自分の気持ちが見えて来てしまった」という状態で、僕は宙吊りになっている。これから、どうしたらいいのか、分からない。

 だからきっと、僕は泣きたいんだと思う。

 この年齢になって、ここまでの経験を重ねてきたからこそ、それが分かり、僕は泣きたいんだと思う。

 でもどうなんだろう。僕は、そう感じているんだから、本当に泣いても良いんだろうか?
 
 昔、松本隆が書いたように「部屋のドアに鍵」をかければ、泣いて良いんだろうか?

 僕には、それがわからない。


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2011年05月24日

「授業」という商売

 今書かないと忘れそうだから、今、書いておく。

 僕は「授業」という商売をやって来た。「商売」というものなのか難しいところだけれど、それでお金を稼いできたのだから「商売」には違いあるまい。

 大学院出て、研究生1年やって、初めて大学の「非常勤助手」になって、給料をもらった。「非常勤助手」というのは芸大内での言い方であって、正式には「非常勤講師」なんだと言われた。そのあたりはよくわからない。

 その仕事は「授業」というものとはちょっと違っていたけど「学生に何かを教える」というものには違いない。

 その職に就いたのが25歳の時だったろうか。それ以来僕は「授業」をやってきた。



 20代、30代、40代、50代、、自分でも呆れるほどの長い時間だ。こんなに長い間「授業」をやってお金をもらって良いのだろうか?

 でも、僕だってお金が必要だ。それを仕事としてきた。

 そういう仕事をしている人間を、人は「教師」と言う。僕は肩書きで言えば「大学教授」だ。だけど、僕の実感としては「教師」をしている感覚も「教授」である感覚もほとんど無い。嘘ではない。全くと言ってよいほど無い。

 では、何があったかというと「今、ここで、目の前にいる人達に、何を伝えるべきか」という事だけだ。それが、僕の仕事。

 その意識が、このところ、何か変わった。

 変わった理由は、大震災をきっかけとしていろいろ考えたこと。そして、今回、心筋梗塞をやって、死にかけたこと。

 具体的にどうこう考えるときりがないけど、要するに、「多くの事は間違いだったかもしれない。だけど、僕は、僕たちはそれに気が付かないふりをしていた」という事がわかったということだ。

 だから、学生にある作品について話す時でも、前ならば「これは、こう話すものだ」というあるパターンが自分の中に出来ていた。無意識の中かもしれないけれど。だけど、昨日、今日は、それが出来なかった。

 「これについて何を言えるのか」という事を、その時に考えた。だから、上手くは話せなかった。聞いているほうも「なんだか、まだるっこしいなあ」とか「何言いたいんだろうなあ」とか思ったかも知れない。

 でも、以前のように「授業」は出来ないと感じた。

 「出来あがっている話」をただ喋るだけでそれを「商売」にしてはいけない。「商売」ならば、よほどの「芸」か「内容」がなけりゃ聞かされた方は怒るだろう。

 この先どうしよう。

 怖い商売をしてきたものだ。

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2011年05月22日

静養

 明日から授業が始まる。午後4時20分から午後5時50分まで、芸大で図学の講義をする。

 図学の授業をすることは、僕の仕事の一つだ。26歳の時からやってきた。

 明日使うプリントはもう用意してある。話の内容も2パターンぐらい組み立てた。連休中に作った資料も持った。本当は9日に配る筈だったんだけれど、僕が入院していたので、2回休講にしてしまった。

 芸大の学生は「古美術研究旅行」や「写生旅行」があって、それらは「公欠」になる。だから、毎回きちんと予定通りに話を進めるわけには行かない。まあ、そういう中で、やるべき事をやって来た。

 そして、明日は、久しぶりの授業だ。

 火曜日からは東海大の実習授業も始まる。

 今回に関しては、ものすごく怖いものがある。

 どこをどう考えても、心配なことは無いし、何も起こらない事は分かっている。だけど、怖い。

 静養しすぎたから、調子が狂っちゃったのだろうか? 違うなあ、きっと。

 いろんな事が静養することによって、よく分かるようになったから、世の中で起きていることや、人と出会うことが怖いんだ。

 以前は、その怖さを感じないくらい、鈍感になっていたのだと思う。

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2011年05月21日

入院中のこと。

 pixivについてとか、本当に自分で良いのかどうか分からないものについて、僕はそれなりに考えてきた。「人が知っている事を知らない」ことが気にくわないという、昔からの性格もあるんだけど、「今話題の情報はしって置かなければいけない」という思いはいつも有った。
 そこで、もう一つ分かったことは、「若い作家達を自分の取り巻きにつけて、それを自分のビジネスにしている人達」の存在が、ハッキリと見えた事だった。

 誰だって、商売として美術をやっているのだから、そう「理念と信念」に基づいたきれい事をやっているワケではない。それはわかる。僕は、とつぜんAKBの事を思い出した。

 病院の地下に24時間円営業のファミーマートがあって幾つもの雑誌があり、その表紙をAKBあg飾っていた。
 
 僕は前から、理屈でなく極めて感覚的生理的な理由でAKBの彼女らが嫌いだったのだけれど、その理由がスパッと分かった。

 彼女らは、顔に「性器」をそのまま付けているのである。それは極めて隠微で清潔感の無い、汚れを感じる性器であり、そこからは性器臭が漂ってる。

 それに比べて何年か前のつんく♂がプロデュースした「モーニング娘」を考えてみた。思い出して身レが彼女の表情やファッションからは「性器臭」は感じられなかった。ただ一人それを感じさせたのは後藤真希であり、彼女はモーニング娘を去って行った。

 美術の話に戻ろう。今若い作家はとにかく「売れること」に飢えている。卒業制作や終了制作で、ギャラリーが付くどうかが最初の勝負になっている。ここ数年はその傾向も落ち着いたようだけど、とにかく、「いかに売れるか」が若い作家にとって重要な問題になっている。

 僕はそれも、とてもわかる。マーケットが成熟しない中で、のんきにある地位を気づいた芸大の教授達があいも変わらず指導をしている。その作品の商品的に価値はなんなんおか、これで僕らは良いのか。と、若い(といってもそう言うことをハッキリ言い出した作家は、もう若くはないが)。でも、それらの「新しいマーケットを作って、世界と対等な美術シーンを日本に作るんだ」とう人達は、最近、その人達に賛同する「若い作家」たちの支えを以前にまして必要にしていると思う。

 ある作家に賛同した若い作家がツイッターで「あなたの言っていることは正しいと思う」と書く。それをその作家は目ざとく見つけ、「あなたの視点は素晴らしい、それこそが日本の美術を買えるきっかけになるんだ」という。これって、とても閉じた世界での、内輪褒めのゲームではないか。

 どうも、そういう動きがあちこちで感じられる。

 僕のツイッター情報が偏っているのかもしれないが、「美術ファン」の閉じた仲間内の楽しみが何か多いのでは無いかと感じられてしょうがない。

 新しい美術を立ち上げて、今までの日本に無かったマーケットを創造するのは、素晴らしいことだと思う。だけど、それを作るのに、「自分のファン」を利用してはいけないのではないか。

 新しい美術は、極めて際どく常識をすり抜けながら、あらに新しい美術を作って来た。それはわかる。だけど、そこに、よく分かっていあいけど、一緒にやりたいというボランティアとかアートファンを加わえるべきでは無いと思う。

 その昔、ハイレッドセンターが、いろんなイベントをやった。帝国ホテルで、山手線の駅で、当時としては「前衛的な」行為を繰り返した。そして、彼ら3人はそれぞれ大きな作家になっていった。

 いまもしもそういうアート的な行為をするとしたら、当然のように「ボランティア」を募るのではないか。僕にはそれが、ものすごく抵抗がある。人を使うなら、「賃金」を払うべきである。もしくは「ボランティア」という言い方ではなく、全てを説明した「共同制作者」として作品を作るべきである。

 僕は、ベッドで寝ながら、そんな事を考えていた。実はミズマアートに行ったとき、僕は「よかまん」のDVDを買おうかと思って、お金を持って行った。その価値のある作品化と思ったのである。だけど、現場でそれを見て買うのは止めた。

 今、僕は、「よかまん」の出演した女子学生が、それを生涯の誇りに思えるようになることを祈るbかりである。

 今のアートは、そういうものじゃないの。そういう思い考えじゃなくて、もっと軽く動かないと商品にはならないの。あんたは古いの。と言われたら、それでも良い。

 僕には大学を出てから、あるいはアートを道をめざし始めてから40年の時間というものがある。それは、僕にとってももの凄い誇りでもあり、僕の支えでもある。

 世の中は、これからどう変わるかは分からない。pixivの話に戻るが、今pixivについて語らないとBTは売れないからBTはpixivを取り上げる。

 でm、どう考えてもpixivの作家の中で、あるいはpixivの中の作品で「後生にに残る作品」というものが出てくるとは思えないんだ。pixivはそういうものではない。フラットな世界の現象なんだ、という人もいよう。それは特に否定しない。それが、そういう事を発言することが、その人のビジネスなのだから僕は人の商売を邪魔はしない。

 だけど、まだ世界がよく分かっていない人を、自分のビジネスのために、自分の価値観に染めるということはして欲しくない。

 人は人の人生を生きる権利がある。その権利を、甘い文言で狭めてはいけない。
 

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入院中のこと 2

 そんなこんなで、僕は個室に移った。何か気が引けたんだけど、どうにも耐えられない気がして、1人の部屋に移った。それまで、睡眠薬は飲んでいたけど、もう一種類追加した。夜7時には耐えられなく眠くなった。そして、毎朝4時に目が覚めた。

 夜や昼は、落ち着いた何かをきちんとかんがえる事は出来なかった。だけど、入院から数日後、ツイッターで多くの人と連絡が取れたのは、本当に嬉しかった。

 そして、寝転がって「温泉ガイド」や「絶景ドライブマップ」や「東京下町散歩」を読みながら、いろんんあ事を考えた。

 実は数ヶ月前、僕は大学の研究室でBTを読んでいた。村上隆の特集だった。表紙には「ホームレス」というか何というか、あの方向のコスプレをした村上隆が映っていた。数日前から、「今度のBTの表紙は画期的だ」という意見が関係者からツイッター状に乗せられていた。

 僕は、そのBTを読みながら、気持ちが悪くなった。なぜから分からないけど吐き気がして、本当にこれな見るべきものではないと思った。僕は病院のベッドの上で、そんな事を考えていた。

 それから「よかまん」の事も考えた。ここで、いちいち書くことでは無いけれど、「これは、良いのかどうか分からないけれど、一応見ておくべきだ」と思って見てきた、ここ数年の作品群を思い出していた。

 そして、僕は自分の人生を考えた。僕はいま58歳だ。けして若くはない。若者が「若気の至り」で、とんでも無いことをやることを限りなく見てきた。そして、その多くが、単なる失敗か、自己満足で終わったことも見てきた。

 それから、僕はここ20年以上、欠かさずにドクメンタとベネチアビエンナーレを見てきた。その中には「これはすごい」と思わざるを得なかった作品もあるけれど、数年経つと、多くが凡庸な作品変わってしまうのも見てきた。

 さて、僕は、ベッドの上で考えた。僕はそこで、突然分かった。間違っているのかもしれないけど、僕にとっては「発見」したものがあっった。

 それはツイッターにも書いた事だけど、美術に関わる人には2種類居る。自分が何としても美術作品を作り続けるんだという意志にあふれ、それを使命として信じている人間と、自分が美術に関わっていること自体を愛している人間だ。

 ある意味、僕は美術側の人間だから、美術好きの「お客様」に冷たくあたる事はできない。だけど、本当に美術について考えている時に、「美術を愛している自分」の人と話をするのは、ものすごくウライ。

 もう一つは、・・・・
 
 ああ、睡眠薬を飲んだせいか、なんとも眠くて打っていられない。。。まあ、こんど。。。。。。

kami133 at 21:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

入院中のこと 1

 入院中、意外にヒマだった。当たり前だよね。静かにしているのが目的なんだから。

 大学の同僚は、これは本当に感謝しなければいけないのだけれど「気にしないで、ゆっくり静養するように」と言ってくれた。

 まあ大あらゆる仕事なんて、いつ誰が急死したって、ちょっと慌てるだけで、実は何も困らない、と僕は思っている。でも、実際にこうなってみると、そう言ってもらえたことは、本当に有り難かった。甘えさせてもらった。

 さて、それで、病院で寝ていると、僕にはやることがない。いつもなら、食事も作るし、イヤだけど掃除もするし、なんだかんだで夜寝るのは結構遅くなる。しかも、その間に、自分の作品の制作もやる。

 僕は大学の教員であるんだけど、作家でもある。自分の意識としては「僕は作家であり、教員もしている」と言った方が正しいかも知れない。そのくらいいい加減な教員なんだ。




 でも、教員になった時の事をこの際に書いておく。

 僕は29際で結婚したが、その時には「定職」というものが無かった。毎日あちこちの大学や各種学校にいったり大学の大先輩のデザイン会社に行って仕事をしていた。年によってだけれど「年収120万円」なんて暮らしをしていた。

 それで結婚しようと思ったときに貯金は20万円無かった。よく相手の親は許したと後から思った得蹴れど、僕らは「結婚するよ」と言ってとにかく結婚した。

 その頃、僕は芸大の助手をしていた。大学の仕事はなにかと心労が多く、結構精神的に参っていた。そして、僕は履歴書を沢山書いて、とにかく他の大学職に就こうと思い、色々は事情を経て、東海大学に就職した。

 ある人は「大学教員は、自分がその大学に就職した経緯を絶対に言いたがらない」と言ったけれど、それは名言だ。たしかにそういう事はある。

 だいたい僕は、「大学教員」というものに社会的な価値をこれっぽちも認めていない。ある人は「良い研究成果」と上げる事もあるだろうし、ある人は「良い教育」をある時期に成し遂げた事もあるだろうけど、これだけ日本に大学が沢山あり、学生もたくさんいて、その数え切れないほどの「大学教員」にみんな「社会的な価値」があるなんんて、確率の上からも考えられない。

 けして卑下するわけではなく、捻くれた石原都知事のような偽悪的な言い方ではなく、「大学教員」というものは、本質的に言えばどうしようもない存在だと思う。世の中で活躍できなかった者の吹きだまりだと言っても良い。本当に有能な人間なら、大学になどいないと思う。

 とは、言いながら、僕は大学教員の道を選んだ。

 それは、僕のできること、僕の指向性を考えて、それが、最も世の中に害を与えず、世の中に寄与できる職業だと思ったからだ。そして、何よりも「作家」として生きたい僕に取って、それが仕事の場にきちんと反映できる職業だと思ったからだ。

 それなりに僕にだって正義感もあるし、倫理観もある。ときおり有りすぎて困ってしまうほどだ。そのバランスの中で、僕は作品をつくり、教員をやって来た。

 その意味では僕は長く「大学」にいるから「大学」の価値有る面と「どうしようもない面」の双方がわかる。誤解をおそれず言えば「東大」にだっって、存在価値のない先生だって居る「東海大」に立って素晴らしい先生だっている。学生だってそうだ。大学に行く価値のない学生もいる。そうでない学生もいる。そういう混沌とした世界で、僕は生きてきた。

 ある人は「教師は芸術家の墓場だ」と言う。それは、かなりの面で正しいと思う。本当に有能な「売れる作家」なら、大学になど居ない。だけど、日本の状況の中で、純粋に「作家」だけで食べていくのは至難の業だ。だから、僕が若い頃から一緒に制作を始めた仲間の多くは、今大学の教師をやっている。それは、「有能だから大学に招かれた」側面もあるが「大学の教師になれたから」作家で居られたという面も強い。


 言って見れば身も蓋もないことだけれど、大学というものはそういうものだ。特に芸術系の大学はそうかもしれない。まあ、純粋に文系と理系(そんな分類をするのは日本だけらしいが)の世界については、僕はあまりしらなけれど。。

 とにかくそういう事で、僕は大学をでてから30年以上生きて来た。初めて「大学の教壇」に立ったのは26歳の時だった。埼玉大学で図学を教えた。その頃は芸大の助手でもあり、たの学校の講師もしていた。それで「年収120万円」だっったわけだ。


 ずっと、僕はそうやって、生きて来た。前に書いた事だけれど「自転車みたいなこの命転がして」という中島みゆきの歌の歌詞があるが、まさにそういう感じだった。

 20代の後半には春秋年に2回個展をやっった。画廊で個展をやらせて貰えるようになってからは、少なくとも2年に一度は個展をやった。そして、それをやりつつ、学生に「ものを造り表現すること」が、僕に出来る「世の中に役に立つこと」だと思ってやって来た。


 数年前から、精神的に不安定になりかなり調子がわるかった。そうとうに悪かったと言ってもいい。だけど、なんと言っても、僕の人生の最大の目標は「作品をつくること」だから、何よりそれを優先してきた。他に何が起ころうとも、「良い作品をつくる」にはどうしたら良いか、僕は考え続けて来た。


 今年、2月頃、いつものように僕は作品を作っていた。でも思うところがあり、普段とちがうものを作っていた。今までの流れの延長線上のことをやっていても「しょうがない」と僕は感じて居た。そして、まったく実験的にいろんな仕事をしていた。来年は個展をしなければと僕はとても焦っていた。

 そして、3月に、あの震災が起きた。僕はかなり作家として動揺した。

 すぐ「作家としてなにかしよう」という動きが立ち上がった。僕にはそれらの動きにはリアリティをまったく感じなかった。多くの人が死んだ。多くの人が避難所で今まで想像も出来なかった苦しい生活をしている。そこで「美術」というものが、何か出来るのだろうかと。

 僕は「美術」というものは、生活に余録が出来たときに生じるとても贅沢なものだと思っている。いや、そんな事は無い。美術が人々の政治意識や社会意識を変えてきたではないか。美術には社会的な力があるという人もいる。僕はそれらの人達と論争する気は無いが、美術にはそれだけの力は無いと思っている。
 
 だから震災後にすぐ「なにかをしよう」と動き出した作家たちにはとても疑問を感じた。そりゃ、一部の人は、それだけの価値のあることが出来るかも知れない。だけど、震災後すぐに「僕たち美術家も何かしなければ」という発言は、美術家の思い上がりとしか思えなかった。

 作品を売って、チャリティー募金をするのはわかる。でも、それは「美術の力」ではない。多くはそのチャリティー作品展に出品しましたという「それだけの作家として認められた満足」でしかないと思った。もし、美術が何かできるとしたら、もっと後の事だろうと漠然と考えた。生きるか死ぬか。毎日苦しい暮らしをしている被災地に行って「美術家」が何ができるというのかと思った。


 そんな事をずっと、僕は考えていた。僕はデザインの教員なので「アートが社会に何ができるか」という事もよく考える「デザインが社会になにができるか」は他の専門の教員がやることで、僕は「アート」について考えて、それについておこがましい言い方だけど「指導」するのが、僕のような者でもせめて社会の中でお金を稼いで生きている人間の最低限の勤めだと思っている。イヤミな言い方をしているようだが、本当にそう思っている。「私の言うことに間違いはない。学生は私の言うことをきちんと聞いていればいいんだ」という「自己のあり方と考え方」に常に疑問を持っていない教員に、ろくな人間はいない。自己満足で教育をしたら、学生にとって迷惑でしかない。


 そして、僕は、心筋梗塞の発作を起こして倒れた。そして、2週間弱入院して、ひたすら「何もしない日々」を過ごした。こんな事は大学を出て以来初めてだった。

 「八日目の蝉」が面白いという評判だったので、娘に買ってきて貰った。途中まで読んだけど、とても読み続けられなかった。体力、気力が無かった。かと言って、ただ眠り続ける事も出来なかった。たまにクロッキー帖を出して、思いついたものをスケッチしていた。それを見た看護婦さんが「えー!そういう趣味をお持ちなんですか?」と聞いた。

 僕は、全く迷う事無く、「いえ、これが僕の仕事なんです。僕は彫刻家なんです」と言った。

kami133 at 04:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2011年05月18日

心筋梗塞 その6

 で、入院とリハビリの話は、このくらいでおしまい。

 でも、いろいろ感じたり考えたりしたことがある。それは140字では書ききれないので、思い出すままに書いておこうと思います。

kami133 at 22:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

心筋梗塞 その5

 僕は地下の治療室へ運ばれた。もっともその時には、病院の中がどうなっているのかなんて、全く分からなかったのだけれども。

 そして看護婦さんが下着を下ろして、「なんとかするといけませんから、毛を剃りますね−」と言った。僕は、苦しくてとにかく痛みを我慢していたんだけど、看護婦さんがとても見事にあのあたりの毛を剃っている事は分かった。カミソリではなくバリカンを使っているようだった。

 そして、「尿管を入れますねー」と言って、尿道のカテーテルを入れて行った。何だか一発でうまく入らないらしく、おちんちんが妙にクネクネしているのが自分で分かって恥ずかしかった。

 それから麻酔の注射を鼠蹊部のカテーテルを入れる所に何本か打った。看護婦さんはそういう時必ず「ちょっと痛いですよ−」と言う。そういう事は言って欲しくないなあと思った。どっちにしたって打つんだから。

 それから、僕は完全に眠ってしまった。
 
 次に目が覚めた時には全てが終わって居て、また集中治療室のベッドの上にいた。家族は3時間待っていたそうだ。

 次の日、重体の方が入って来たので、一般病室に移動してくださいと言われ、僕は6人部屋に移った。

 それから、まる1日、ひたすら動いてはいけないという時間が続いた。少しぐらい良いじゃないかと思ったけれど、血液が固まらないような薬を入れているので、出血しやすいのだそうだ。

 カテーテルを入れた所に砂袋を乗せられた。横を向くときは誰かを呼んでくれと言われた。おしっこは尿管を入れているので、そのまますればいいと言われた。どれも、はい分かりましたと言ったけど、初めての事なのでとても辛く、なにか不安だった。

 みんな6人部屋に居るんだから良いじゃないか、これで文句を言ったら贅沢だと思ったけど、とても辛かった。だいたいここに来る前も、何か気持ちが落ち着かず、突然叫びたくなるような日々が続いていた。
 そして看護婦さんにお願いして、個室が空いたらそこに移してもらうように頼んだ。差額ベッドは一晩9000円ぐらいだったけれど、毎日これが続いたら、誰かを怒鳴ってしまいそうな気がして、まあいいやと思った。ビジネスホテルにいると思えば3食付いて安いとも言える。


 そして、これが、とても不思議なんだけど、胸が痛くなり苦しくなってから、「叫びたいような気持ち」というのは、あまり感じなかった。2週間ほど、頭を左に振ると、その度に「ボワンボワン」というような耳鳴りがしていてとても不快だったのだけれど、それもあまり気にならなかった。

 しかし、リハビリが進んで、胸の苦しさが去って行くと、また「叫びたいような気持ち」が、たびたび感じられるようになった。お見舞いに来てくれた人にその話をしたら、「人間には苦しさの順位というものがあるのかも知れないですね」と言っていた。


 
 カテーテル治療というのは、すぐ退院できると思っていた。だけど、見せられたリハビリ計画表は5段階のリハビリになっていて、10日は必要なものだった。

 第1段階のリハビリは「15分間椅子に座る」というものだった。まず寝た体勢で心電図を取ってから、僕は体を支えられながらゆっくり起きてベッドの側に置かれた椅子に座った。

 椅子に座ったら尿道に入れているカテーテルに痛みを感じた。普通に座っていられなくて、腰を前にずらして座ると痛みが無くなった。僕は、尿管カテーテルの先端が、膀胱をつっついているんだと思った。普通なら、膀胱の中程まで入っているカテーテルが、僕の場合には性器が小さいので、膀胱の底まで届いているんだと思って、恥ずかしくなった。

 その次の日は「トイレまで歩く」だった。それから「病棟を一周する」「病棟を3周する」「シャワーを浴びる」「湯船につかって自分で頭を洗う」という風にリハビリは続いた。その度に心電図を測り先生が「合格」を出して、次に進んだ。

 病棟の地下に24時間営業のファミリーマートがあった。それは家人から聞いていたし、一度地下の「心エコー室」に車椅子で連れて行かれたときにその前を通ったので知っていた。

 僕は、とにかくそのファミリーマートに行きたかった。「リハビリ計画書」を見ると「シャワーを浴びる」を合格すると、「棟内を自由に移動できる」という目安になっていた。「シャワーを浴びる」に合格が出ましたよと看護婦さんが言ってきたときに、僕は「地下のファミリーマートにいけますよね」と聞きたかったんだけど、それはあんまりだと思ったので、それとなく「えーと、地下にも行けるんですか? 買物をしたいので。。」と言った。
 僕は、すぐに「あ、いいですよ」と言われると思っていたんだけれど、看護婦さんは「先生に確認してきます」と言ってナースステーションに去って行き、なかなか戻って来なかった。

 お昼を食べ何時間かした頃に看護婦さんが戻ってきて「先生の許可がでました。でもニトロを持って行かなくてはいけないので、処方してもらいました」と言って、ニトロールの舌下錠を5錠持って来てくれた。そういうことで、時間がかかっていたのか。
 僕は小さな紙袋に、電源を切った携帯電話と、千円札3枚と、ニトロールを入れて、エレビーターに乗って、1人で初めて地下へ下りて行った。

kami133 at 20:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

心筋梗塞 その4

 それでとにかく5日の深夜。僕は横浜市民病院へ入院した。

 僕は何も分かっていなかったけれど、夜間の救急窓口にはとても大勢の人がいて、僕はかなり待たされたそうだ。そして、集中治療室へ運ばれた。これも、全部あとから知った話だけれど。

 当直の先生は循環器内科の専門の人だった。心電図を測り、血液を検査した。その結果、「心膜炎」だろうという事になった。心臓の周囲の膜(?)の炎症らしい。心筋梗塞特有の心電図は出なかったようだ。

 しかし、普通なら出ない筈のなんとかという「酵素」が血液中に出ていて、「ちょっと気になることがある」から、集中治療室で引き続き経過を見る事になった。家族は明け方帰っていった(らしい)。僕は何も分からないで寝ていた。


 そして次の日、7日の土曜日。僕の胸の痛みはかなりひいていた。食事もちゃんと食べられた。でも、少し痛みがあるから、痛み止めの薬を飲んだ。そしてそのまま眠った。

 8日は親族があつまる法事の日だった。僕は行けないけど、そう危険な感じではないから、みな墓参りに行っていた。そうしたらお昼頃、突然胸に痛みが来た。

 僕は、しばらく様子を見ていた。このまま通り過ぎる痛みかもしれないと思った。だけど、どんどん痛くなるので、看護婦さんを呼んで「胸が痛いです」と言った。下を向いてひざまずいていたら、看護婦さんは、「下を向いたらもっと痛くなりますよー」と優しく言うんだけれど、僕はそういう姿勢しか取れなかった。

 看護婦さんは「心電図を取りますね。体を伸ばしてください」と言ったけど、僕は、胸が痛くてとても真っ直ぐ上を向いて寝ていられなかった。体が自然に捩れて、ハアハア言うのがやっとだった。どのくらい痛いですかと聞かれたから、ここに来たときと同じですと、何とか答えた。

 先生がやって来て、心電図を見たりいろいろしていた。そして、「カテーテル治療をしますから、承諾書にサインしてください」と言った。僕はどこにですかと聞いて、ここですと指さされた所に酷い震える字でサインした。ここにチェックを入れてくださいとも言われた。何が何だか分からないけれど、四角らしいところにチェックを入れた。

 ご家族に連絡をしているんですが、連絡がとれませんと、困ったように看護婦さんが言った。僕はその頃はちょうどみんな地下鉄に乗っている時間だと思った。ご承知の人も多いと思うが、横浜の地下鉄は「全席優先席」で、地下鉄の中では携帯電話の電源は切らなくてはいけない。家人はそのあたり妙に真面目な性格だから、あ、今携帯電話の電源は入れてないなと思った。

 僕は、息子の携帯電話に連絡を取ることにした。自分の携帯電話を取ってもらい、息子の電話番号を言って、ここに電話してくださいと言った。看護婦さんが電話した。息子は電話に出たようだった。

 ちょうどその頃僕の母が様子を見に来たらしい。今中には入れませんと言われ、廊下で待っていた。そこへ、連絡のついた家人と息子と娘がやって来た。ちょうど、これから治療室へ行くのと同じタイミングだったらしい。

 家人も同意書にサインしたのだろうか。僕は4人が立っている細い廊下をストレッチャーに載って、エレベーターへ運ばれて行った。

 家人は僕を見て「ここで待っているからね」と言った。

 僕は、「携帯電話にはちゃんと出てよ」と言った。

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