2009年07月04日

 数日前の晩のことだけれど。

 夜中に目が覚めた。そうしたら、自分の頭が無いような気がした。

 手はある。足もある。顔もある。それはわかる。

 でも頭が無い。



 額の所から上、ちょうどお椀をかぶせたようなその部分。どうしても頭があると感じられない。

 目を閉じてじっと体に意識を集中してみる。
 
 頭だけが無い。



 頭が無いから、脳も無い。

 空っぽのその部分はへこんでいる。自分でのぞき込むことは出来ないはずだけれど、肉色の凹凸のあるへこみが見える。

 

 それ以来ずっと頭が無い、いつでも目を閉じると肉色のへこみが見える。
 
 

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行き先

 今日、ある交差点から中目黒の駅に向かって歩いた。

 初めて通る道なので、歩いて行く先に何があるかは知らなかった。

 ドトールのようなものが無いかと思って歩いて行ったら、ちゃんと東横線のガードをくぐった先にあったので、そこに入った。

 最近、ドトールは無いかなあと思って街を歩いていることが多い。

 スターバックスはあまり好きでないから、ドトールに入るのだけれど、どちらにしても、たいした行き先ではない。意味のある行き先に向かって、歩いて行くことが、最近はあまり無いような気がする。


 では、昔はあったのだろうか。


 恐竜を見たくて科学博物館へ行った。

 小泉首相を見ておくべきだと思って靖国神社へ行った。

 ある展覧会をみたくて水戸まで行った。

 ある場所からの写真を撮りたくて吉原へ行った。

 ラーメンを食べたくて荻窪まで行った。


 最近は、ドトールばっかり。どこにでもある。

 問題は、別にドトールが好きなわけではないということだ。嫌いではないけれど。



 本当に行きたいところはどこなのか。

 あるけれど、それは口にはできない。



 
 このところ、どうにもつらい。

 何がつらいのか、思い当たるような気がするけど、はっきりとはわからない。

 わかっているのかも知れないけど、それは口にはできない。
 

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2009年06月30日

海の幸の前菜

 海の幸の前菜を食べた。香月のラーメンを食べた。キムチチジミを食べた。

 笑っている若い女性の顔を見た。まったく屈託無く明るく笑っていた。

 コンピュータの入っているバッグを背負って歩いたら重かった。

 国立西洋美術館の次回予告の看板を見た。

 映画を見ようと思って映画館に行ったら、開映時刻を30分間違えていた。

 雨の夜、マクドナルドに1時間いた。

 保険金殺人の法的解釈についての解説を読んだ。

 危なく自転車に乗っている若者にぶつかりそうになった。彼は、「チッ」という顔をして僕を見たけど、僕の運転にまったく問題はない。

 心理テストの用紙をもらった。

 ジャガイモとサワークリームを買った。ポテトサラダを作ることができる。

 コンピュータの入ったバッグは重かった。

 高島屋の5階を一周した。眩暈がした。

 大金目当ての強盗や強盗殺人は、貧困が原因からは起こらないという解説を読んだ。

 心がねじ曲がっていく姿が見える。それと同時に、自分の顔がねじ曲がっていく様子が見える。

 飛行機のフライトの時刻を調べた。

 ほとんど僕にとって意味のあるメールが来ない。

 コンピュータを入れたバッグは重かった。

 何もかも壊れてしまうことが想像された。

 週刊文春を買ったが、まったく中を読まなかった。

 バッグにはコンピュータが入っていたので重かった。

 香月のラーメンを食べた。

 あまりに肩が痛かったので、マッサージに行った。

 心理テストの用紙をもらったが、まだやっていない。

 睡眠導入剤を飲んだが、あまりよく眠れない。

 高島屋の5階の売場を何回もまわった。

 紙袋が雨に濡れて、底が破れそうになった。

 富士宮に行きたい。

 最近家の中で、閉めてあるドアに何回も激突する。

 笑いと暴力は、とても近い関係にある。

 海の幸の前菜を食べた。

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2009年06月29日

カーナビ 暴力

 ずっと前のことだけれど、どうしても許せない人間がいた。

 あらゆる方面から何度も考えても、その人間を許すことは出来なかった。極端に言えば、その人を消滅させることは、世の中にとって善行と言えるのではないかと思えるほどだった。僕が人生を棒にふっても、その人間の人生を消し去ることが、日本にとっては価値があるとその時は思ったくらいだった。

 僕は、その人間の名前をカーナビに打ち込んだ。そうすると、その人間の住まいが、カーナビの地図の上に表示された。いつでも、そこへ行けると思って、僕は自分の気持ちを少しだけれど落ち着かせる事ができた。

 夜中に行くのか、明け方に行くのか、何を持って行くのか、行ってどうするのか。それはわからない。わからないけれど、僕の気持ちの中には、明らかに暴力的な強いものがあった。

 それから、何カ所かをカーナビに打ち込んだ。それは、僕にとって、行かなければいけない所であったり、行くべきところであったりした。



 その後、いろんな事があり、その場所には行くことが無かった。行かなくて済んだということか。でも、後から考えると、そこで僕は犯罪者になる可能性は極めて大きかった。しかし、犯罪者にはならなかった。それは、「核の抑止力」のようなものだったのだろう。いつでも、相手に攻撃を仕掛けることができる、でも、その場合には、自分にもものすごくダメージを受ける。もしかしたら、相手も自分も消滅してしまうかもしれない。だけど、その抑止力が無ければ、関係は成り立たない。



 そのカーナビが搭載されている車を売って、新しい車を買った。車を下取りに出す際に、カーナビのデータはもちろん全部消去した。

 新しい車が来て、カーナビに人の名前を打ち込もうとしたら、そういう機能が無い。僕は愕然とした。

 個人情報なんとやらの法律ができたのか、新しいカーナビには、電話帳のデータが一切入っていないのだった。前のカーナビは後から取り付けたものだったので、あれを取り外しておけば良かったと思ったけどもう遅い。深夜、名前だけ知っている誰かの家に乗り付けることは、もう出来なくなった。

 個人情報保護法が出来たので、僕は犯罪を犯さなくてすんだのだろうし、ある人間は危害を受けなくてすんだのだろう。



 「暴力はいけない」と、お題目のように唱えたって、暴力はなくならない。暴力は、いかにもそれがありそうな所にだけ姿を潜めているわけではない。人から見れば思わぬところに、ものすごいエネルギーの暴力が潜んでいる。

 僕は、自分の心の中にある暴力の強さを知っている。人は、心の中にある暴力がいつ表にでてしまうか、自分ではわからない。

 だから、いつ誰かから暴力の攻撃を受けても、それは仕方のないことだと思っている。

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2009年06月28日

殺意

 殺人には、未遂と既遂があるんだそうだ。殺しきれなかった、あるいは、殺すのに失敗したのが未遂。殺しきったのが既遂。

 誰でも、誰かを殴ってやりたいと思うようなことはある。そして、殺してやりたいと思う事もあるけど、それと、実際に「殺しきる」ことを実行するには、相当の壁があるという。

 だけど、最近思うんだけど、その壁はものすごく高いんだけど、ものすごく薄いのではないだろうか。

 人に対して「まったく、あいつらは」と思う事がよくある。だからと言って殺してやろうとは思わない。そこにはものすごくたかい壁があって、向こうの世界には簡単には行けない。

 壁はものすごく高いから、飛び越える事なんて絶対に出来ないんだけど、その壁は結構薄いもので、ほんのちょっとの気持ちのブレで、「えいっ!」とか言ってぶつかって行ったり殴ってみれば、簡単に壊れてしまう。

 越えられない壁があると思っているから、人は殺意を安心して高めているんだけど、その壁が意外に簡単に壊れてしまったら、その高まった殺意のまま、相手に向かって行ってしまう。

 自分は人を殺すはずなんか無いと思っているから、「殺してやる」なんて心の中で思っているんだけど、思いの外簡単にそのまま相手の前にすっとでてしまったら、結構簡単に首を絞めたり、包丁で刺したりしてしまうのではないか。

 自分を殺人者にしないためには、その方法というものがあると思う。

 その方法が無くなったり、崩れてしまったら、きっとだれでも、殺人者になるのではないか。




 電車の中や、静かにしているべき場所で、大きな声で話している若者を見ると、殴ってやりたいと思うし、時には殺意を抱く。
 
 その若者は、自分に対し、誰かが殺意を抱いているなんて、思ってもいないだろう。

 甘すぎる。

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2009年06月27日

調子が良いです

 2週間に1度の通院日。先生に調子はどうですかと聞かれた。
 
 はい、調子は良いです、と答えたんだけれど。ホントは調子はそんなに良くない。そのあたり、もう少し説明したんだけれど、わかってくれただろうか。

 前みたいに、海の底にいるような気はしなけけど、何かが終わって一人になると、自分がどこにいるのかわからない。

 人に普通に明るく話せる気分と、一人でとてもつらい気分と、裏表にくっついている。小林幸子の「雪椿」みたいだ。

 まあ、そういうものか。誰だって。




 夜、車に乗って、高速道路なんかをすごいスピードで走っていると、ジェミニ宇宙船に乗っているような気がする。

 ジェミニ宇宙船には乗ったことはないけれど、狭い宇宙船の中に体を潜ませて、宇宙空間をすっ飛んでいくのは、きっとこういう感覚だったんだろうなと思う。


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2009年06月25日

言葉

 言葉というのはむずかしい。

 口から出た言葉が、あ、これは少し思っていることと違っているなと感じても、だからと言って、慌てて説明したり、言い直したりしようとすると、ますます、思っていることと離れていったりする。

 その時には、これで良かったと思っても、夜ふと目が覚めて、ああ上手く言えなかったなと思ったりもする。

 僕は、いつから言葉を使い始めたのだろう。2歳か、3歳か。それから何十年も使ってきた。でも、未だに言葉はむずかしい。一生、そう感じて生きていくのかもしれない。

 だから、あ、これは違っているなと気が付いても、すぐ忘れることにしている。でも、忘れきれないこともある。

 他の人は、言葉をどのように使っているのだろう。
 
 そのあたり、話し合ってみたいけど、何しろ言葉は難しいから、きちんと話し合いができないような気がする。

 おたがいに、その時は話が通じたと思っても、夜になって両方とも「上手く言えなかったなあ」と思ったりして。

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2009年06月22日

映画

 どうも気が重くて、何もする気が起きない。でも、何かした方が良いかと思って、映画を見に行った。

 朝日新聞の映画評で、佐藤忠男が褒めていたので、「剣岳 点の記」に行った。広告を見て、まあ、面白そうだと思ってもいたので。

 映画は、うーん、こういうものかなあと思って進んでいって、いつクライマックスになるのだろうと思っていたら、そのまま終わってしまった。

 チラシに載っていたロケ地の事とか、まあ確かに写ってはいたけど、別にどうと言うことはない。

 どこが良いのかわからない映画だった。

 にぎりめしを食うシーンでは、俳優は一所懸命にぎりめしを食い。

 宮崎あおいは、とにかく可愛い新妻で。

 仲村トオルは、憎々しげな役を仲村トオルのまま演じ。

 香川照之は、感動的な演技をし。

 最後はちゃんとこっちとあっちと心が通じ合い。

 で、映画としては、どうってことなかった。風景の映像としては、ときおり極めて美しいものがあったが。


 なんで、佐藤忠男があんなに褒めていたのかなあと不思議だったのだけど。その映画評は、「八甲田山」で冬山を見事に撮った木村大作カメラマンが監督をして、冬山のシーンを思う存分撮っている、というような言い方で、素晴らしい映画というような言い方はしていなかった。

 それから、「剣岳 点の記」製作委員会というのに、朝日新聞が入っていた。


 うーん。そういうわけだったのか。



 しかし、最近の映画で「なんとか製作委員会」というのがあるけれど、あれ、いったい何なのだろう?
 
 協力とか協賛とかいうのとは、違うのだろうか。わけがわかりません。



 剣岳はいけなかったなあと思い。翌日「レスラー」も見た。

 これは、素晴らしいです。脚本と監督と俳優と、もうレベルが違う。

 僕は、ハリウッドというのは、よく知らないながらも嫌いなんだけれど、底力というか、映画というものを作る姿勢において、きちんとしているなあと思った。

 何の違いなんだろうか。

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2009年06月20日

石見銀山

 西友に車を止めて店内に入ったところに、旅行の代理店がある。今日は、いやに混んでいた。みんな何処かへ行くのだろうか。

 時間をつぶすためにドトールに入ってアイスコーヒーを飲み、出ようとしたら出口に近いテーブルの所に女の人が一人座っていて、なにやら一生懸命見ている。

 その女の人は、一年半ぐらい前に流行った感じの重ね着のスタイルで、わりと地味な感じでメガネをかけていた。一生懸命見ているものは、「石見銀山」の旅行のパンフレットだった。

 「石見銀山」の旅行のパンフレットというものが存在することに驚いたが、それを食い入るように見ている人がいるということも驚きだった。人はそれぞれ、いろんな興味を持っている。

 きっと、その女の人は、日本中、もしかしたら外国も、いろんな所にいってしまい。「石見銀山」に行き着いたのだろう。最初の国内旅行に「石見銀山」を選ぶこともないだろうから。


 「石見銀山」は、たしか世界遺産になった。たくさんの旅行者が行っているのだろうか。その辺はよく知らないけど。



 「石見銀山に興味があるんですか?」と話しかけて見たかったけれど、警戒されて、もしかしたらどこかに通報されてしまいそうな雰囲気だったので、話しかけることはできなかった。当たり前か。
 でも、どういう人が「石見銀山」に出かけるのか、とても興味がある。

 そういう人が、いままで出かけた旅行先の調査でもしたら、何か面白い事がわかるような気がする。

 なんのためになるかは分からないけど、面白い結果が出るだろうと思う。

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2009年06月19日

趣味 性向

 YouTubeで、スカットテレフォンの有吉弘行の回を見たと言ったら、息子も見たと言っていた。まずい、同じ趣味を持っている。

 僕は趣味を持っていない。こないだ、卒業生とそんな話をしたんだけれど、「あなたの趣味は何ですか?」と聞かれるのは、本当に困るということだ。僕もそうだ。

 えーと、と考えるんだけど、これが趣味だというものは、思い当たらない。

 でも、人それぞれ、好きなものがあり、それが趣味と呼べるなら、なんかしらみんな持っているだろう。

 職場の同僚が集まっても、同じ趣味を持つグループにはなりにくい。ミクシイなんかで、そういうグループが出来ると噂に聞いたけど、出来るんだろうか。

 でも、同じ映画鑑賞とか、盆栽を育てるとか、家庭菜園を作るとかいっても、その人たちが、同好の士となるかというと、そうでもない。

 写真を撮ると言っても、春の新宿御苑に言って、「桜が咲きましたなあ」とか言いながら写真撮るのと、また夜の新宿をうろつきながらやばい写真を撮るのと、あるいは妙齢の和服の御婦人にご無体なポーズをとらせて非情な写真を撮るのとでは、同じ写真が好きと言っても、全く違う。

 家庭菜園でも、家から逃げたくて、ダラダラ日曜を過ごす口実にやるのと、「自然食の良さはね!」とか言いながら、ニコニコしながらやるのとでは全く違う。



 同じことをやるにしても、ダラダラもしくは淡々とやる人と、目を輝かせてやる人がいる。僕は、目を輝かせるのは苦手なので、好きなことが同じだとしても、そういう元気な人とは、一緒にやりたくない。

 その人の趣味と、その人の性向とは、別のことだ。



 多くの人の中から、同じ趣味を持つ同好の士を探すのは、出来ることかもしれない。でも、同じ性向の人を捜すのは、なかなか難しい。

 ゲイの人は、同じゲイの人を、見ただけでわかるということだが、同じ性向の人というのも、難しいけど見分けられるような気もする。

 そういう人と出会うことができたら、それは良いことだと思う。

 別に、映画鑑賞とか、そういう趣味で一致しなくても、長い長い友達になれるかも。

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2009年06月18日

スキャンダル

 今日の朝日新聞の夕刊に、藤原新也の人を犬が食べる場面の写真が載っていた。

 随分前の写真だけど、それを初めて見たときの事は覚えている。

 まず、単純にすごいなあ、と思った。よくこういう写真を撮ったなあと。

 僕はその頃、大学生だったかと思うけど、世の中では、その写真について真剣に語るというよりも、一種のスキャンダルとして語られる事が多かったと記憶している。

 スキャンダルという言葉の意味は、「名誉を汚すような不祥事。金銭や異性などに関係した,よくないうわさ。醜聞。」だそうだが、それだけでなく、世の良識に逆らうような行為やものということも含まれると思う。

 犬が人を食べる写真は、金銭でも異性関係でもないが、世の良識に逆らうようなものとして、スキャンダラスなものであった。



 スキャンダルに対してとる態度としては、いくつかあると思う。

 一つは、世の良識と一緒になって、それを攻撃すること。

 それから、傍観すること。

 それから、スキャンダルを起こしている人やものの立場に立つこと。



 状況は、いろいろあるだろうけど、僕は、最後の、スキャンダルを起こしている立場に立ちたい。



 それは、世の良識というものは、多くの人の集合意識であって、なぜそうなのか、という事を問わないことが多いからだ。それに与することは、自分で何も考えていないことに繋がりかねない。

 それに対して、スキャンダルが起きるという事には、なんらかの必然があるはずだ。静かに何も考えずに世の中に対して行動もせず、縁側でお茶を飲んでいるだけでは、スキャンダルは起きえない。その人は、理由があって行動をせざるを得なかったのだ。

 なんらかの行動。それが、一般的には、あまり褒められないことだとしても、それを起こさざるを得なかった人に対して、集合意識と一緒になって、深く考えることなくそれを非難することだけはしたくない。

 それなら、傍観しているほうがいい。

 良識というものは、何も生み出さない。今日と同じ明日が続くだけだ。

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悲惨 写真 その3

 キャパの写真に「崩れ落ちる兵士」あるいは「死の瞬間の狙撃兵」と呼ばれる写真がある。敵の銃弾に撃たれた瞬間の兵士の写真だ。それは、人の死の瞬間の写真である。

 また、撮影者は忘れたが、ドイツ兵がバルコニーのようなところで撃たれおそらく死亡し、その大量の流血が「手前」の部屋に流れ込んでいるところを「こちら」側から、逆光で撮影した写真がある。それは、きわめて美しく、画面構成も完璧な「良い」写真である。

 「戦場写真家」という人たちがいる。その人たちは、往々にして「死体」の写真、あるいは「死の現場」の写真を撮る。その行為もその写真も、非難されることはない。

 しかし、人の死や人の悲惨な現場のある種の写真は、それを撮ったことを非難される。よくこんな残酷な写真をとれるなと。あるいは写真を撮る時間があったら、その人を助けられなかったのかと。

 浅沼稲次郎刺殺の瞬間を撮って、ピーリッツアー賞を受けた写真家も、非難を受けたという。あの写真が歴史に残ったということは、あのカメラマンがいたからこそ出来たことで、僕はあれは日本のメディア史の至宝といえるものだと思うけれど。


 その一方、昨年の秋葉原無差別殺人の事件の際には、多くの人が、事件現場を携帯電話のカメラで撮影して、ある人は、ネットのブログなどに公開したという。

 これには僕はものすごく抵抗がある。

 別にそれは法的に問題はないのかもしれない。まあ、肖像権の問題は生じるかもしれないが。それより問題と感じることは、「素人はそういうことはやるな」ということだ。

 悲惨な写真とか、死の写真というのは、それを撮影し公開することを社会的に認められている立場の人だけに許されるものだと思う。

 あるいは、思いがけなくそういうものを撮影してしまった素人の写真でも、それに、公開するだけの価値があると社会的に認められた場合にのみ、許されることではないのか。

 素人が、チャラチャラとそういうことをしてはいけない。それは、死に対する冒涜だと思う。

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2009年06月17日

悲惨 写真 その2

 もう少し、言葉をはっきりさせないといけない。

 悲惨な状況を撮影した映像や写真の中には、表現として優れているものや、美しいものがある、ということだ。

 多くは、残酷であったり、見ることの出来ないものであったり、あるいは、グロテスクなものであったりするだろう。

 だけれども、その中に、人の美的な感性に訴えてしまう表現が生じる場合があるということだ。



 それを、どう考えるのかが問題なのだ。

 それは、見る人間側の問題なのか、あるいは、映像や写真が本質的に持っている問題なのか。

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悲惨 写真

 悲惨な情景の映像や写真が、とても美しく感じられることがある。悲惨なことが美しいわけではなく、その写真そのものが美しいのだ。

 飛行船ヒンデンブルグ号の炎上の映像は、とても美しい。

 ノルマンディー上陸作戦のキャパの写真も美しい。

 プレスカメラマンが撮った「銃殺」の現場の写真でも、極めて美しいものがある。

 それらは、「美的な表現」を目的として撮影されたものではないだろう。プロのカメラマンなら、写真そのものにある種の「技法」というものが、にじみ出てしまうのかも知れないが、キャパのあの上陸作戦の写真は、そんな余裕のあるものではないだろう。

 表現されたものというものは、現実とは別のものに変質してしまうのだろうか。

 藤田嗣治の「アッツ島玉砕」は、圧倒的に美しい。絵画として素晴らしいものだと思う。それが、戦争に荷担した画家のものだとか、戦争画そのものの歴史的評価ということとは、別の次元の話だ。

 しかし、「アッツ島玉砕」を否定する人もいる。あの絵の良さが分からないのだろうか。あるいは、絵の良さとは話が違うとして言っているのだろうか。


 タリバンは「バーミヤン石仏」を破壊した。「アッツ島玉砕」を否定する人は、それと同じではないかと思うのだが。



 9.11の映像が美しいと言ったら、多くの人に非難されるかも知れない。それは、そう感じてはいけないということではなく、そう感じるなんて許せないと言われるような気がする。


 
 1945年3月10日の東京大空襲の夜。関東地方のかなり遠くの所からでも、東京方向の空がきれいに赤く見えたそうだ。また、B29が超低空で編隊を組んで東京上空に飛んできたのを、美しいと感じだと誰かが書いていた。

 ある時間が経てば、そういう事を言うことも許されるのだろうか。

 応仁の乱で、京の町が燃えさかる情景は、おそらく美しかったろう。

 また、大きな天体が地球に衝突して、地球が火を噴いて爆発して、60億人の人たちが全滅しても、その情景は遠くから見れば、おそらくとても美しいものだろう。


 外国作家の写真や映像作品を見ると、病気であったり事故であったり、人間にとって「悲惨」なものをモチーフとして扱っているものが多く見受けられる。

 それは、単純に「美しい」というものとは違うかも知れないが、「美術」である以上、「美しさ」と無縁ではありえない。

 単なる悲惨な現場のグロテスクな写真や、刺激的な映像は「作品」にはなり得ないだろうけど、それが、「作品」になる場合もある。その場合は、「悲惨」であることや「あってはならないこと」が、別のものに変質して、「見るべき意味のある」ものになっているのだと思う。また、そうならなければいけないと思う。


 また、一方では、「芸術」や「表現」というものは、古い言い方だけれどある種「反体制」のものであり、一切の常識や社会の価値基準から自由であるという本質を持っている。

 古い常識に縛られている親が、子供に対して「そんなことは、するもんじゃないよ」と言って、子供が素直にそれに従っているとしたら、その子供には表現なんか出来っこない。

 

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9.11

 ずっと考えていて、人には言っていないし、どこにも書いたことはないことなのだけれど。

 9.11の同時多発テロで、飛行機がワールド・トレード・センタービルに衝突する映像がある。いろいろな方向から撮った映像が残っているけれど、あれらの映像は、とても美しい。

 もちろん、あの瞬間。時間にして1秒もないのだろうか、まさに瞬間に大勢の人が死んだ。なぜ死ななければいけなかったのか、不条理な死としか言いようがない。確認することも必要もないくらいに、テロは犯罪だ。

 しかし、あの映像には美しさを感じてしまう。それは、いけないことなのだろうか。

 なぜ、美しさを感じてしまうのだろうか。他の人は、どう感じているのだろうか。

 倫理的な判断と、美しさを感じる感性とは、僕の中で、人間の中で分離しているのだろうか。

 ずっと、それを考えていた。

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2009年06月16日

睡眠導入剤

 通っている医院で、「夜寝付けなくて困っている」と言ったら、では、と言って「睡眠導入剤」を処方してくれた。睡眠薬とどう違うのだろう。まあ、同じらしいけど。

 以前薬を飲んでいて、眠くて困っていた。午後の授業に何度か眠っていて遅れてしまったし、車を運転していて、これはまずいと思ったことも何度かあった。

 それで、その薬は少しずつ減らして、今は飲んでいないのだけど、今度は眠くならずに、睡眠薬を飲むことになった。薬局のひとが半分にして飲んでもいいと言っていたので、最初から一錠飲むのはどうかと思って、半分に割って飲んだけどもう一つ効き目が弱い。

 薬を調節しながら生きているような気がする。

 よく「睡眠薬自殺」というのを聞いたけど、最近聞かない。無くなったのだろうか。

 おそらく成功率が低くて、死ねないのではないだろうか。

 でも、1週間分7錠飲んだって死ねないだろう。50錠とか100錠とか飲まないと。それだけ手に入れるのも大変そうだ。他の努力をしたほうが良い。

 睡眠薬自殺するときは、睡眠薬100錠とかを、何かと一緒に飲むと良い、という話を聞いたことがある。なんだろう、忘れた。「検索」すれば、すぐ分かるだろう。必要ならその時調べればいい。

 しかし、「検索」すれば何でもわかる。恐ろしいくらいだ。

 自殺の方法をネット検索で調べて、実行した人もきっとたくさんいるだろう。死んじゃったから、調べようもないけど。



 

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2009年06月15日

1Q84

 村上春樹の新作だけど、買ったけど、まだ読んでない。

 もともと、ノルウェイの森を最初に読んで、それから、家の者が村上春樹の小説が好きだったもので、その影響も受けつつ、色々と読んだ。結局、小説は全部読んでいる。家にも全部ある。多くは単行本と文庫版と両方。

 一番好きなのは、「世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド」なんだけど、これは読んだときには、もの凄いショックを受けた。こういう世界を構築するなんて凄い人だ・・・という感じで。

 今でもこの小説は好きだけど、よく考えると、ストーリーの構築に意識的なものが見えすぎる感じがないでもない。上手すぎるということです。恋しくて悲しくて胸が苦しくなるような小説で、僕は本当にすきなんだけど。

 それに対して、「羊をめぐる冒険」の方が、素直な小説という感じで、いつ読んでも楽しめる。

 問題は「ねじまき鳥クロニクル」なんだけど、これは、読むのに3年かかった。1部と2部はわりとどんどん読めたんだけど、その後3部が読めなかった。あまりに重いというか、続けて読む気になれなかった。それである時、「読まなければ」と思って読んだんだけど、これは苦しかった。

 あるストーリーのある小説として読むなら、苦しくは無いのかもしれないけど、僕だってこれでも、一応いろんな人生経験を経てきているので、なかなか読むのがつらい小説だった。

 「若い人は」とか言いたくないけど、若い人は、このつらさはわからないでしょう。



 今日、週刊朝日を買ったら、「1Q84」の事が書いてあって、あまり褒めてなかった。まあ、読む人それぞれだろうけど。

 そこで、村上春樹は日本の文学の世界では、あまり評価されてこなかった、という事が書いてあった。群像新人賞は取ったけど、芥川賞とか取ってないと。(でも谷崎潤一郎賞は「世界の終わり・・」で取っているはずだけど)

 それで、いまでも一部の文芸評論家は評価してないと。しかし、今は評価をするか重要な時期であろう、というようにも書いてあった。なにしろ、毎回ノーベル賞を期待されたりしてるんだから。



 もっとも、村上春樹は日本の「文壇」は、相手にしていないのだろう。「否定」しているわけではないかもしれないけど、そういう所とは違うスタンスで生きているんだろうから。



 でも、村上春樹の小説は、読んだすぐ後では、「よくわからない」というのが、正直な所だ。それで、しばらくたって、ズーンとわかってくる。それは、たまらないもので、今の日本の他の人の小説には決して無いものだと思う。日本というものを飛び抜けて、村上春樹の小説の世界はある。



 唯一気になるというか、不満があるのは、小説の最後になって、主人公が多くを語り出して、物語の「解説」みたいなことをしてしまうことだ。

 あれは、ちょっと、恥ずかしい。

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観覧車 その2

 いつだったか、「ゴジラ」の映画を見に行ったら、みなとみらいの観覧車をゴジラが派手に壊していた。

 ゴジラはその前に、横浜駅の西口にある「ジョイナス」を壊して、横浜駅を壊しながら東口へ出て、そのまま、みなとみらいへ歩いていった。僕の地元だから、よくわかる。

 でも、横浜駅の西口というのは、山側にあたるから、西口から東口にあの巨体が歩くというのは、そこまでどこをどう歩いていったのか、動線が難しいのではないかとおもったけど。

 それで、みなとみらいに着いたゴジラは、観覧車に組み付いてそれを倒した。ついでに、すぐそばに立っているランドマークタワーにも襲いかかってそれも壊した。

 両方とも出来たばかりのものだったから、僕は「ああ、ああ、壊しちゃって・・・」と思いながら、それを見ていた。



 誰かが、何処かで書いていたけど、ゴジラはどうして「名所」というものがわかるのだろうか。高度な知性というしかない。


 最初のゴジラは、国会議事堂を壊したような気がする。違ったかな。大阪城も壊した。

 ゴジラではないけど、モスラは東京タワーに繭を作った。

 アメリカのゴジラは、パンナムビルを壊して、ブルックリン橋を壊した。



 あれ、「名所」を壊すのではなくてもいいのではないだろうか。長野の山奥の何とか村とか、板橋区のなんとか商店街とか。

 渋谷のホテル街とか、すすき野の風俗街とか、大阪の宗右衛門町とか。

 平井の商店街の洋品屋さん一家が逃げ惑って、その家の少女がゴジラに立ち向かって、ゴジラをやっつけるなんてのは感動を呼ぶかも知れない。

 その場合は、身長何十メートルのゴジラではリアリティーが無いから、身長2.8メートルぐらいのゴジラが良いかもしれない。

 そのくらいの大きさのゴジラが、渋谷のホテル街をぶっ壊しながら歩いていって、裸の男女がキャーキャー言いながら逃げ惑うなんてのは、良い映画になるような気がする。それなら、若いカップルが知恵を絞ってゴジラをやっつけることも可能だろう。


 そうなると、これは、一種の町おこし村おこしで、どこを舞台にしても映画を作ることが出来る。制作費もそんなにかからないだろう。「ご当地ソング」みたいなものだ。

 能登の千枚田を壊すとか、弘前のりんご園を壊すとか、由比の桜エビ漁の港を壊すとか。

 中には、スポンサーがついて「横浜市戸塚区の中村整形外科病院」を壊すなんてのもできる。中村重利院長自ら出演して、「やられた!」とか言いながら倒れて、看護婦長の柴田智恵さんがメスと酸素ボンベで立ち向かって、ゴジラをやっつけるなんてもの。

 そうなると、最初は悪役だったゴジラにも人情味があるなんて設定も考えられるようになって、「ゴジラと少女。横浜中区編」では、野毛の商店街を壊して歩いていったゴジラが、ふと、近くにいる少女に気が付き、自分の悪行に反省して、少女をゆっくり抱きかかえ、そのままみなとみらいへ歩いていって、観覧車に一緒に乗る、なんて展開もあり得る。

 「隊長!今です! ゴジラを撃ちましょう!」なんて部下が言うんだけど、「駄目だ。子供を抱えている!」という事になって、15分間、なんの恐怖感も持っていない少女を抱きかかえたまま、ゴジラはコスモクロックで一回転する。

 それで、体が大きいもんだから、よいしょ、とか無理な体勢で、少女をまずゴンドラから外に降ろすと、「今だ!」って言うんで、一斉にゴジラに向かって、自衛隊が発砲。ゴジラは「ギョー!」とか叫びながら、死んでいくわけですね。

 少女は、「ゴジラさーん!」とか叫びながらゴジラに近寄ろうとするんだけど、おかあさんが「陽菜ちゃん、いっちゃダメ!」って言うんで、ゴジラに近寄せない。

 「ゴジラさん。陽菜には優しかったのに・・・」と言う顔をアップの後、ゴジラが倒れている情景をずっと引きながら撮っていくシーンで、映画はおしまい。

 

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2009年06月14日

観覧車

 最近観覧車をよく見る。というか、観覧車の近くを通ることが多いということなんだけど。

 観覧車というのは、あれ、なんのためにあるのだろうか。ふつう、観覧車には一人では乗らない。二人とか三人とか。

 「あっ、観覧車だ! 乗ってみようよ!」という感じで乗るのだろう。朝起きたときに、一人で「うーん。今日は観覧車に乗ろう」と考えて、みなとみらいとかお台場に出かけるというのは、あまりないだろう。「来月の17日に観覧車に乗ろう」とかも。

 「今度の日曜さあ、みなとみらいに行こうよ。観覧車もあるよ」「あっ。あたし、あれ知ってる。一度乗ってみたいと思ってたんだ! コスモクロックって言うんだよ!」「へえ、よく知ってるじゃん」「えへへへへへへ。あたし、頭いいもん!」なんてのはあるか。

 だけど、なにか観覧車には、人を興奮させるものがある。

 最近の観覧車はやたら大きいけど、きっと昔の観覧車はそんなに大きくはなかったのだと思う。みなとみらいの「直径100メートルです!」なんてのは大きすぎで、もっと素朴なものだったような気がするけど。

 そう言えば、デパートの屋上に観覧車があって、小さいのがくるくる回っていたなあ。

 乗ってみれば、高いところから風景が見えるんだけど、あれは結果であって、「高いところから風景をみる」ために観覧車に乗るというものでもないと思う。

 やはり「観覧車に乗る」ということが、重要なのだろうか。




 ここで、ウィキペディアかなんか調べれば、観覧車の歴史とか「そもそも」とか分かるのだろうけど、それはしないでおく。




 昔、ウィーンで観覧車に乗ったことがある。「第三の男」で有名な観覧車。

 あれは、「ウィーンに行けばあの観覧車がある」という事を知っていたから、「地球の歩き方」なんか見ながらいそいそ出かけたように記憶している。そして、意外に大きなゴンドラ(という呼び名でいいのかな)とか、木製の床を見て「あ、ほんとだ」と思った。高いところから見た風景は、まったく覚えていない。見上げた光景は覚えているけど。(「地球の歩き方」だけど、そのころは「ヨーロッパ」で一冊というのがあった。今よりずっと「貧乏旅行」のためのガイドブックだった)

 パリでも観覧車に乗った。これは移動遊園地の組み立て式の観覧車。結構大きかった。

 乗っているのは、我々一組ぐらいにすいていたので、やたら早く回してみたり、一番高いところに来たとき回転を止めたりしてサービスしてくれた。これも、怖かった記憶はあるが、見た風景は覚えていない。

 結局観覧車は、なんのためにあるのだろう。「ある」ということは、ちゃんと利潤が上がっているのだろうから。
 
 あれ、相当に儲かるのではないだろうか。だって、1回作ったら、まあ保守点検の費用はかかるとして、みなとみらいのコスモクロックの場合、一人700円を現金払いするのだから。えーと、1日平均1000人乗ったとして、1日70万。一年2億5550万円。

 人数はどうなんだろう、計算してみると、定員480人で15分間で1回転。と言うことは1時間に4組が乗ることになり、営業時間10時間として、、480かける4かける10で19200人。ゴンドラは4人定員だけど、まあ、2人で乗ることが多いだろうから、半分で9600人。雨の日の平日とかもあるから、1日平均1000人より多いか。

 まあ、観覧車に乗るときには、そういう事はあまり考えない。乗っている15分の間に「これ、相当に儲かるんじゃないかなあ。だって、一人700円を現金払いするんだから・・・」なんて話してたら、嫌われるかもしれない。また、「これ、700円の価値があるのだろうか・・・」なんて考えてもいけない。

 「あっ、観覧車だ! 乗ろうよ!」と言って乗るものなんだろう。それで、乗ってる間中「高い高い! 怖いなあ!」とか「きゃあ! やだあ!」とか言って、二人でくっついていればいいのだろう。

 

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2009年06月13日

横浜

 昔から、地図を見るのが好きだった。小学生の頃から、いろんな地図を買っていた。

 横浜の区分地図というのがあって、そんなには大きくないけれど、各区が1ページになっていて、全体が二つ折りになっているのを持っていた。その頃の事だから、戸塚区は一つで、港北区も一つだった。港北区は横に広がった四角い形をしていて、戸塚区は月のような形をして大きく反っていた。保土ヶ谷区もまだ分かれていなくて、大きくひとつだった。

 遠足かなんかに行くと、帰ってきてから、バスで走った道路に印をつけた。

 大人になってから、昔の事を思い出して、その地図を見たくなったことがあった。だけど、いつの間にかその地図は捨ててしまったのか、本棚になかった。確か、本棚の地図を並べたところに一緒に置いてあったと思ったのだけれど。

 「横浜の今昔」とか「50年前の横浜」みたいな本も好きで、いろいろ買った。だけど、その区分地図をもう一度見てみたいと思う。自分が持っていたその地図でなければいけない何かが、あるような気がする。


 

 僕は、何でも物事を悲しく感じてしまったり、全ての思い出は悲しい方向に向かってしまうほうなんだけれど、横浜というものも、素敵な楽しい街なんだけれど、悲しい街という気もしてならない。

 僕にとっての横浜は、過ぎ去ってしまった街というものでもあるような気がする。どこに行っても、なに考えてるんだか、楽しそうな若い人ばっかりだし。まったく。



 みなとみらいの観覧車は、初めは今の場所でなくて、ランドマークタワーの隣の場所に立っていた。僕はその観覧車に乗った時、ランドマークタワーを建てるために、地下にものすごく大きく深く掘った穴を見た。

 「そうそう、そうだったよなあ、あははははははは」というより、
 「そうだったよなあ、世の中って悲しいなあ」という感じがする。

 その区分地図も、楽しい思い出のためではなく、横浜の悲しさを確認するためなのかもしれないけど、もう一度見てみたい。

 病的だろうか。
 

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