2009年11月22日

僕は今日

 僕は今日殺された。

 後ろから頭を何かの塊で思い切り殴られた。

 家の中に誰かがいるなんて思いもしなかった。

 会社の帰り、僕は近くのコンビニで牛乳とパンを買った。明日の朝食べるつもりだった。それからゆっくり歩いて家に帰った。玄関に鍵をかけて蛍光灯のスイッチを押した。

 昼休みは会社の近くのレストランで同僚と食事をした。僕はいつものようにパスタのランチを食べた。そのあと時間があったのでドトールでコーヒーを飲んだ。

 会社に行ったのは8時半過ぎだった。いつも通りの時間だった。

 朝は目覚まし時計のベルで目をさました。7時だった。それからテレビをつけてニュースを見ながら簡単な食事をした。

 ベッドで今日買ってきた本を読んだ。いつもそうやって眠くなったら寝てしまう。

 会社の帰り本屋に寄った。週刊誌の書評に面白そうな本が出ていたのでそれを探した。

 駅の売店で週刊誌を買った。書評を見てみたら面白そうな本があった。会社の帰りに本屋に寄ってみようかと思った。

 朝ポストに入っていた新聞を読みながら朝食を食べた。週刊誌の広告が出ていた。今日は水曜日だからいつも読んでいる週刊誌の発売日だ。朝会社に行く前に週刊誌を買おうと思った。

 目が覚めていつものようにポストに新聞を取りにいった。

 明日は早く起きようと思う。

 今日は朝起きるのが遅くなってしまってしまって食事もとらないで家を出た。

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2009年11月21日

僕は

 僕は新潟県の生まれだ。

 生まれた家の近くには音降川とみんなが言っていた大きな川があった。子供の頃にはその川でよく遊んだ。

 父親の仕事の都合で小学校の6年の時に横浜に引っ越してきた。

 それから中学高校を横浜で過ごし、東京の大学に行った。

 大学生の時に当時盛んだった学生運動に参加して一度逮捕されたことがある。

 それからフォークソングに熱中してコンサートとか友達と開いていたけど、大学はなんとか単位だけ取得して卒業した。

 仕事は音楽の世界に行きたかったんだけどやはりそれは難しくわりと大手の運送会社に勤めた。

 でもその会社もすぐ辞めて友人がやっていた出版社に移った。



 「予言書」が流行していた時期で、僕が編集した「2010年終末の書」が大当たりして僕も出版社も大もうけした。

 稼いだお金で会社の友人達とサイパンに行った。



 サイパンの帰りの飛行機がエンジントラブルを起こし飛行機は近くの海岸に着水した。

 なんとか僕は助かったけれど3人の友人が死んだ。

 それから僕は大学に入り直して航空力学や動力工学を学んで飛行機事故の専門家になった。


 そのころ僕は結婚をした。買ったばかりのダットサンで新婚旅行に宮崎に行った。

 宮崎の海岸を走っているときに漁師達が浜辺で大きな鍋で何かを煮ているのを見た。漁師達に聞いてみるとそのエキスで栄養剤を作るのだという。

 僕は面白いものだと思ってその栄養剤をすこし分けてもらってきた。



 旅行から帰ってその栄養剤を飲んでみると、とても苦しくなり目の前が真っ暗になった。

 正気に戻ってみると、僕はアメリカ人になっていた。あんなに出来なかった英語もスラスラと喋ることができる。

 僕は英語学校の講師になり日本人達に英語を教えた。

 そこで稼いだお金でアメリカの大学に留学した。だれも僕を日本人だとは思っていない。



 当時ニューヨークではグレンミラーなどのジャズが流行っていた。コンサートホールはいつもいっぱいだったけど、まだレコードというものがアメリカには無かった。

 僕はレコードもCDも iPod も知っていたけど、そういうことは知らないような顔をして蓄音機を作って特許を取った。

 僕はエジソンになった。




 それから僕は江藤新平になり酒井包一になりライト兄弟の兄になりシルビーバルタンになった。

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2009年11月20日

睡眠

 昨夜は仕事に疲れきっていて、睡眠導入剤も飲んだので、ベッドで横になり左向きになろうとした瞬間に寝てしまっていた。

 そして次の瞬間に目が覚めた。朝の5時半だった。

 睡眠時間は3時間半。

 そのまま起き出して仕事をした。仕事といえるかわからないけど。




 睡眠が深ければ、睡眠時間は少なくていいのだろうか。それとも何か興奮状態にあるから睡眠が少なくなっているのだろうか。



 このところ、精神のテンションが極めて高くなっている。頭の中で、細い金属弦がきりきりに張られて、キンキン音を立てている。

 だけどおそらくそれは、表面にはまったく出ていない。

 上空にはコンコルドが何機も飛び回り、地上の泥濘にはダイハツのオート三輪が走っている、そんな気分だ。



 そういうわけのわからない状態は、健全ではない。

 多くの人が、そう言う気分で暮らしているのではないかと思うが。

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寝かた

 僕は仰向けで眠ることができない。

 たいてい横を向いて丸まったりして眠る。

 たまには仰向けで寝てみようかと思って、上を向いてじっとしていると、暗い中にジーンという聞こえるはずのない音が聞こえる。

 そのままその音を聞いていると、自分が死体になったような気がする。

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2009年11月16日

言葉

 ドトールで、隣の席に座っていた20代後半の女性二人。先輩らしい女性が後輩に言った言葉。

 「理解出来て、ムカつくことがないくらいの距離がいいのよ」



 アップルストアで、一生懸命iPhoneの新機種をみていたカップルに店のスタッフが言った言葉。

 「楽しんでいらっしゃいますか?」

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2009年11月14日

マスク

 大勢の人がマスクをして歩いている。

 マスクをすると、みんな美男美女に見える。

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気が重い

 僕はほとんど政治には関心の無い人間だ。

 ということにして生きてきた。
 
 だから、政治的な発言とか行動は、しない。したくない。



 だけど、最近、なんだか、とても気が重い。

 とても憂鬱になる。

 何も良いことが見えてこない。

 腹が立つとかいうより、めまいがするという感じ。

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2009年11月13日

お詫び

 大阪港で身柄を確保された彼の両親が会見をして、最初のうちの放映ではちゃんと顔が出ていた。

 次の日になったら、顔にぼかしが入っていた。

 何て国なのだろう、この国は。なにかがおかしい。

 また、その会見の次の日の会見なのだろうか、両親がテーブルの向こうでそろって頭を下げて「申し訳ありませんでした」というふうに言っている映像があった。もちろん顔はぼかしてあったが。



 「まず、申し訳ありませんでしたと、お詫びをするべきだろう」と誰かが言ったのか。

 なにか「不祥事」が起こるとみんがみんな、同じようにそろって頭を下げて「お詫び」をするけど、あの「お詫び」を見たいとみんながみんな、思っているのだろうか。

 そりゃあ何も言わないというわけにはいかないのだろうが、あの儀式のような「お詫び」には大きな違和感を感じる。

 させる方にも、する方にも、なにかの大きな力がはたらいているのだろう。



 それをどう分析し解釈するべきか、今の僕にはとてもできないが、それにまつわる世間の不気味さぐらいは十分に感じる。



 「事業仕分け」の作業での、あの蓮舫参議院議員や仕分け人の態度も理解出来ない。

 麻生元首相が言っていたけど「居丈高」な態度そのもので、見ていて(TVのニュースだけれど)見ていて不愉快きわまりない。ちょっとやるべき作業に対しての流れが何か狂っているのではないか。「仕分け人」たちは権力を得たことで、テンションが上がってしまっているのだろうか。TVの取材もあるし。

 とりわけ「世界一のスパコン」の件では、「世界一」という言葉に対しての揚げ足取りのような感じだ。

 この日本。これからは科学技術で生きていくしかないと思うのだけどどうなんだろう。あと日本独自の文化で。(もちろんあの「マンガ」も含んでいるけど)

 ほんのちょっとだけれど、自民党の時代の方がまだ良かったのかなと思ってしまうくらいだ。

 真剣というのと気負いすぎというものは、違うものだ。

 真剣な行いというものは、ちょっとでも行き過ぎると、すべてを壊してしまう。

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2009年11月11日

 言葉が出てきてしょうがないのでもう少し書く。

 実は、マイケルが好きだ。

 本物は見たことは無いけど、ビデオとかでいろいろ見てきた。曲は、まあ一通りのことしか知らないけれど。

 今、やっている、映画が観たい。

 それで思うのだけれど、マイケルの「芸」はなんと言ったらいいか「狂気」の領域に近づいちゃっている「芸」だと思う。

 アメリカで言えば、古くはシナトラとかパットブーンとかプレスリーとかのアーティストの芸は「こなれた芸」あるいは「しゃれた芸」だ。またドアーズとかイーグルスなんかの70年代の「芸」は「反体制風のエンターテインメント」の芸だけど、そういうものとは違う「ちょっとやそっとじゃ近づけないやばい世界」の「芸」。

 ああいう「いっちゃってる芸」というのは(「芸」と言って良いのかわからないけど)日本には無いものだと思う。少なくとも今の日本には。

 日本で政権交代が起きたとき、アメリカのメディアでは「なんでみんな興奮していないんだ。アメリカでは噴水に飛び込む人がいる」とか言ったそうだけど、アーティストばかりでなく客も一緒に「いっちゃっう」ことができる。まあ、アメリカの風土というのは実感としてわからないかから何とも言えないけど。

 円楽が死んだけど「最近の落語家はどうですか?」というインタビューに「・・・ダメだね・・・」と答えたということだ。

 落語家とかそういう「芸人」というものは、俗世界とは違う所に生きていて、それだから「芸」ができるわけで、今の日本みたいに、誰もかれも自分と同じ世界の価値観に芸人を引きずり降ろそうとしている中では、「狂気の芸」「凄まじい芸」は生まれないだろう。

 これは「芸人」に限らず、あらゆる表現者について同じ事。

 藤田嗣治も岡本太郎もみんな「狂気」を持っていた。

 島崎藤村とかもかなり「狂気」がありそうだけど。

 「狂気」とは違うかも知れないけれど、永井荷風はもちろん、もしかしたら夏目漱石も「ある世界へいってしまった」のかもしれない。

 落語ではきっと六代目円生も八代目桂文楽も柳亭痴楽も、あの林家三平も談志も。

 歌舞伎では今の団十郎とか菊五郎よりも勘三郎のほうが「狂気」に近い芸の意識を持っているかもしれない。

 たまにコンサートとか劇場とか行って思うんだけど、終わって幕が下りると、みんな何事も無かったかのように「さて」と席を立っていく。自分でコントロールできて了解できる楽しみの範囲しか、なかなか経験はできない。

 終わって席を立てないという事が以前は時々あった。これは僕が年をとったということだけでは無いだろう。そういうことが今はあまりない。

 「いっちゃってる人」あるいは「そこまでいくのか」という表現を見るしか、自分も「いっちゃうこと」はなかなかできない。

 その世界にのめり込んで「いっちゃってる」人というものを、今の世の中は許してくれないのだろう。犯罪者は困るけど、何か狂っている人ぐらい生きていたって良いではないか。

 「あの人はちょっとおかしい」というくらいでないと、普通の真面目な人で終わるしかない。でもみんながみんな普通の真面目な人なんて、面白くもなんともないではないか。

 その「ちょっとおかしい人」を、今の世の中はとても怖がる。

 今は個人主義で、お互い関係が薄い社会だというけれど、昔の関係が濃い社会の方が、個人の「狂い」を認めていたのではないか。

 今は、遠いところからでも人の「狂い」を監視して、互いに指摘追求している。

 そんなことをしても、なにも良いことはないのに。

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キャッツ

 横浜にキャッツがくるらしい、ということについて、僕はたまらない感情を持っている。

 それについて、いろいろと書いたんだけど(まあ、一方的な根拠もない主観的な否定的意見)、まったく反論のしようのないまっとうな意見を頂いたので、それは削除しました。主観的な否定はしてはいけません。こういう場で。

 ただ、劇団四季の営業システムとか、日本人が外国のミュージカルをやるというそのこと、そういうものに、頭がくらくらするのです。

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2009年11月10日

ビューラー

 マキアージュのビューラーが事故を起こしていることがわかり、114万個自己回収することになったという。

 僕の最も恐れていたことが起きた。

 まったく気の毒という気持ちと同時に、ざまあみろという気がしないでもないが、この「ビューラーに対する敵意」というものは、いったい何なのだろう。自分でもわからない。


 
 写真を調べることがあり、この10年間に撮した写真を見直した。

 この10年は普段はデジカメで撮っているから、いや、「デジタルカメラ」と言わなくてはいけない。そのデジタルカメラで撮っているから、みんなiPhotoに入っている。

 それを見ていたら、「死んだ人」がたくさん写っていた。この10年間に僕の前にいたことがあったけど、この10年間に死んだ人だ。




 僕もきっともうすぐ死ぬ。

 みんなきっともうすぐ死ぬ。

 明日かもしれないし、2年後かもしれない。

 もしかしたら30年後かもしれないけど、人の大きな歴史から考えれば「もうすぐ」のようなものだ。



 もうすぐ死ぬ人が、偉そうなことを言ってはいけない。

 どうせもうすぐ死ぬ人が、人の上に立とうなんて思ってはいけない。

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2009年11月09日

動物園

 夕飯を食べていたら、急におしりが痛くなった。それから膝から下が痛くなり、体がサワサワしてきた。

 これは風邪の兆候だ。インフルエンザかもしれない。薬を飲んだ。この薬は絶対的に信頼している薬で、早く飲めば風邪はまず治る。

 布団を敷いてもらい、みんなとは離れた部屋で早く寝ることにした。足首が痛い。

 夢を見た。




 僕は自分の部屋の掃除をしている。部屋中に土砂が大量に溜まっていて、ものすごく汚い。蝋かなにかが何カ所にも流れたようで、床にこびりついている。

 掃除機が置いてあるんだけど、とても吸いきれる量ではない。僕はまず箒で土や砂をかき集めた。それから蝋のようなものを剥がし取ることにした。

 パレットナイフがあったので使ってみたけど、そんなものではとても取れない。ナイフが曲がってしまう。

 厚いへらを見つけてそれで厚く固まった蝋を剥がしていった。何人かが手伝ってくれた。

 そうしているうちに、どんどん掃除が進み、気が付いたら部屋もバラバラになって、そこには何も無くなってしまった。

 「あ、掃除をしすぎて部屋が無くなってしまった!」僕は焦った。

 「どうしたんだ」近くで工事をしていた人だろうか、屈強な男達が集まってきた。

 「掃除をしすぎて、ほら、何もなくなってしまったんです」と僕は言った。見てみると、横の道路に柱や壁の残骸がある。柱には「西」とか壁には「東」とか墨で印が書いてある。

 手伝って貰い、僕は部屋を組み立てる事にした。でも、どうも材料が足りない。さっきゴミの収集車が来たから、大事な部材を捨ててしまったのかもしれない。

 床と天井の材料がない。部屋が出来たとしても土間のままになってしまう。地面は平らではないから床を張るにしても、床を支える柱の高さを調整するのが大変そうだ。

 僕は、部屋を組立直すことが出来るかどうか不安だ。どうしてこんなことになってしまったんだろう。



 そこで目が覚めた。風邪が悪い感じがそんなにしなかった。しばらく布団の中に居たけど、起き出して少し仕事をした。

 そしてまた寝た。また夢を見た。



 僕は上野動物園の入口で切符を買おうとしていた。前にいる若い女の子が、切符売り場の人と何か押し問答をしている。その女の子は午前中通っていた英語学校で同じクラスだったから、顔を知っている。今時珍しい茶色い毛布のような長いコートを着ている。

 女「母がパスを持っているんです。だから入れてください」

 係「だけどパスは本人しか入れないのです」

 女「どうしてですか。母がパスをもっているんです」

 どうも、女の子の母親が動物園の年間入場パスかなんかをもっていて、女の子はそれを理由に動物園に入れて欲しいと言っているようだ。

 係「それで、パスはどれですか?」

 女「今はもっていません。だけど本当に母が持っているんです」

 園長が出てきた。

 園長「困りましたねえ。パスが無ければ入場はできないんですよ」

 女「母がパスをもっているんです」

 後ろで順番を待っていた僕は聞いているうちにイライラしてきた。僕はそのパスの説明書きに「このパスは記名してある当人だけが使用できる」という文章があったのを知っていた。

 僕「あのさあ、パスが無ければ入れないんだよ。パスには記名してある当人だけだ使用できるとちゃんと書いてあるんだよ!」

 女「(泣きながら)どうしてですか、母がパスを持っているんです。入れてください」

 さんざんそんなことを言い合っているうちに僕は面倒になってきた。

 僕「じゃあ、今日は僕がお金を出してあげるから、それで入りなよ。入場料はいくらだろう? 君は中学生なのかな?」

 女「いえ、高校生です」

 入場料の看板を見ると、中学生200円、大人380円とある。高校生は大人料金なんだ。

 まあいいやと思って、僕は380円を女の子に渡した。

 そして、僕もパスが欲しくなったので園長さんに言った。「パスをください。いくらですか?」

 園長は3000円だと言う。そしてパスの売場はここではなく、ちょっと離れた所だという。

 女の子が「あ、あたしが買ってきてあげます」と言った。入場料を出してあげたから、パスを買ってきてくれるというのだろう。僕は女の子に1万円札を渡した。

 しばらくして女の子がパスとお釣りを持って来た。お釣りは千円札3枚しかない。

 僕「おかしいじゃないか、お釣りは7000円のはずだ!」

 女「わかりません。お釣りはこれだけです。これだけだったんです」

 なんて女だ。僕はその女の両肩をガッシリと抱きしめ捕まえて、逃げないようにした。

 女は「知りません。お釣りはそれだけだったんです」と言って僕から逃げようとする。

 僕は逃げられては困ると思い、二人で争いながらああだこうだ言って揉み合っている。園長は困ったような顔で見ている。



 目が覚めた。風邪は良くなっているようだ。
 

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2009年11月07日

ロンリー・ローラー

 僕の車には「ミュージックボックス」というのがついていて、かけたCDは全部そのまま録音してくれる。

 こないだあるアルバムを録音していたら「ミュージックボックスがいっぱいです」という表示が出た。いらない曲を消去しなさいということらしい。236枚のアルバムが入っているとのこと。

 聴きたくてかけているんだからいらない曲なんか無いんだけど、しょうがないからビートルズのアルバムを全部消去した。

 ビートルズはこの半年ばかりほとんど車では聴いていない。

 何曲かは聴きたくなくのもあるんだけど、アルバムを全部聴くかというと、どうもそういう気にはなれない。

 最近聴いているのはヴァージンVSの「ロンリー・ローラー」とか関種子の「雨に咲く花」とか、人にはとても言えない演歌歌謡曲のたぐいばかり。シロコロホルモンとか富士宮やきそばの世界。

 仕事をしているときも、そういう曲ばかりかけている。



 昔ある展覧会のオープニングで、当時有名だった(今も有名だけど)ある彫刻家と一緒になったんだけど、その人が仕事場で石原裕次郎の歌をガンガンかけていると聞いて、驚いたことがある。愕然と言うかビックリした。

 でも今考えれば、その人は若いときに裕次郎の歌を聴いていたんだろう。そういう曲が「身に染みついて」いたのだろう。

 仕事をするとき、何も考えずに車に乗っているとき、別に音楽の勉強するわけではないんだから難しい曲を聴く必要もない。今さら新しい音楽を仕入れる気もしない。ほかに仕入れなければいけないものはあるんだし。誰に気をつかう必要もない。



 しかし、フォーク・クルセダーズの「紀元貳千年」は聴き直してみると名盤だ。「オーブル街」なんて、あの当時良く作ったと思う。

 それから「ロンリー・ローラー」も名曲だ。



 松井はとても偉い選手だと思うけどNHKのトップニュースでやる必要はないと思うけど。

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2009年11月04日

NHK

 人間ドックに行った。いろいろ問題が発見された。どうしよう。

 それはそれとして、そこの病院は待合室の高いところに薄型テレビが設置してあり、いつも「世界の車窓から」の映像を流していた。(たぶんそうだと思う。あの番組を編集して商品化したものだと思う。)
 
 僕はそれをとても気に入っていた。

 何をするでもなく名前を呼ばれるのを待っている時、本を読むのも良いけれど、なにも考えず「世界の車窓から」を見ているのは気持ちが落ち着いて良かった。病院として良い選択だと思っていた。

 

 今日その病院に行ったら、テレビから「国会予算委員会中継」が流れている。

 ああそうか、首相の献金問題もあるし、与野党攻守所を代えた攻防と言うことでNHKをやっているんだと思ってテレビの横を見ると「患者様から要望があり、平成21年7月よりNHKを放映することといたしました。ご理解といただきたく云々」と張り紙がしてあった。

 それで、「世界の車窓から」を流していたのに変わったんだと状況を「ご理解」した。あれ良かったのに。

 誰が要望を出したか知らないけど「あんな電車の窓からの風景よりも、NHKを見たい」と言った人がいるんだろう。何人もいたのかな。

 それで病院としては「患者様の要望だから変更しよう」となったのだろう。

 しかし「世界の車窓から」のほうが良かったなあと思っている人もきっと多くいるはずだ。僕もそうだし。

 でも僕はそういう事を病院に言ったりはしない。「世界の車窓から」を好む人は「これ良いなあ」と黙って思って見ていて、それがNHKに代わったら「残念だなあ、あれ良かったに」と黙って思っているだけだと思う。

 それに対してNHKを好む人は「あんなのではなくNHKにしてください」とはっきり言うのだろう。そういう人がNHKを好むものだ。



 どこにでも、世の中にはいろんな意見があるということを分からずに、自分の意見をはっきりと言う人がいる。そしてそういう人は自分が正しいと思っている。

 そして、そういう人は他のみんなが黙っているものだから、やっぱり自分は正しかったんだと思う。「世界の車窓から」を見ることが出来なくなって、悲しい思いをしている人のことなんか思いもつかないのだろう。なんたって、NHKが好きなんだから。今日なんか「おお、予算委員会をやっている。こういうものを見なければいかん」とか思っているんだろう。

 そういうことを考えて僕はイライラしてきた。そして待合室をながめ回して「どいつがNHKを見たいと病院に言ったんだ!」と思った。しかしみんなそんな素振りをみせずに黙って座っている。

 みんな病気でつらい思いをして我慢して来ているのに、なんでよりによって予算委員会なんか見なけりゃいけないんだろう。

 でも、誰かが言ったんだ。「NHKが見たい」と。

 どうして誰かが言っただけで僕が楽しみにしていた「世界の車窓から」が無くなってしまうんだ。どうして、僕は無視されてしまったんだ。



 「ふざけるんじゃない!! 僕は『世界の車窓から』を見たいんだ〜!!」と待合室の真ん中で叫んだら、どういうことになるだろう。

 看護師が大勢飛んできて「あなたの言うことは正しいです。私たちもそう思っていたのです!」と言ってくれるだろうか。

 そして「患者様から要望があったので『世界の車窓から』を再び放映することといたしました」という張り紙を作ってくれるだろうか。
 

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2009年11月02日

水の中

 夢を見た。

 僕は水の中を歩いていた。ある時は魚のように泳いでいた。

 水の中は青く澄んでとてもきれいだった。そして少し暗かった。

 僕は、ゆっくり水を吸っては吐いていた。鼻から大きく体中に水を吸い込み、そして息苦しいことは無かった。



 僕は、体の中を歩いて行った。鼻から水を肺いっぱいに吸い込んで、どうして苦しくないのか不思議だった。隣の人が、体にはもともと酸素が蓄えられているので、それを使っているので苦しくないのだと教えてくれた。

 歩いて行くとぽっかり明るい大きな穴があいている所があった。覗いてみるとたくさんの魚がゆっくりとそこを回って泳いでいる。しばらく見ていたら、左上から大きな魚がやってきた。マンタだ。巨大なマンタだ。

 僕は、体に蓄えられている酸素の量が気になってきた。そうしたら、少しずつ苦しさが感じられるようになった。

 僕は水の中から出ることにした。ゆっくりと水面へ上がっていく。




 僕は空を飛んでいた。農村を爆撃する戦闘機の記録映像にように、麦や背の高い草に覆われた畑や草原を、超低空で飛んでいく。

 道に沿い、丘に沿い、地表面を撫でるように飛んでいる。

 僕は、飛行機そのものなのかもしれない。思ったように体は飛んでいく。植物の緑がとってもきれいだ。





電車に乗っていたらゴルフ週刊誌の中吊りがあった。「奇跡の練習メニュー」「真横に動いたらぶっとんだ!」「素振りなしで出たらベストスコアが出た!」「傾斜力をあげて本番に強くなる」・・・・

 こういう週刊誌を毎週読んでいるのだろうか。

 ほかにやることはないのか。





 録画しておいた「フォーク・クルセダーズ・再結成解散コンサート」を見た。

 「加藤和彦は音楽を変えた」とあちこちに書いてあって、そうだったっけなあと思っていたけど、コンサートの様子を見ていていろいろ思い出した。

 確かに加藤和彦たち当時の若者は音楽をそして時代を変えた。

 でもそれは、時代が変わる大きな変動の時に、多くの若者が立ち会い参加していたというべきだろう。
 
 いつだって若者は時代を変えたいと思っているのかもしれない。

 でもその後、変わってくれる時代は現れなかったし、若者も変えるべき時代を見つけることが出来なかった。

 時代を変えたということが出来たのは吉田拓郎の世代で終わりだろう。

 その後は、荒井由美もサザン・オールスターズも、ユニコーンも、ミスチルも時代を変えてはいない。音楽ビジネスを変えることはできたかもしれないが。エイベックスもしかり。



 民主党も時代を変えることはできないだろう。

 もう時代は変わらない。

 時代が変わるということは制度が変わりモラルが変わるという事だ。

 もはや変えるべき制度もないし、モラルに基準も持ち得ない。

 日本がめざす方向が無ければ時代を変えようがない。



 キム・ヨナと安藤美姫が優勝を争って日本中が熱狂する知れないが、日本はその間にもしだいに崩壊していく。

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2009年10月31日

トライアウト

 Yahooのニュースを見ていたら「日本女子プロ野球機構(GPBL、片桐諭代表)は30日、来春開幕するリーグの合同トライアウトを開いた」んだそうだ。トライアウトってなんだろう?

 記事のどこを読んでみても「トライアウト」とは何かということは書いてない。

 いろいろ読んでいるうちにイライラしていて、女子プロ野球は、もう何があっても今後絶対に見ない!ということに決めてしまった。

 なんと心が狭いんだろうか。偏屈というか頑固というかひねくれているというか。



 週刊誌を読んでいたら、女優の三大ヘビースモーカーは「黒木瞳、松たか子、小雪」なんだそうだ。全然知らなかった。そんな感じしないのに。

 黒木瞳ってヘビースモーカーなんだ。

 人というのは、印象と実体は全然違う。「へー、全然知らなかった」というのが人の本当の性格というものだ。




 僕は、これからきっと、どんどん偏屈に頑固に了見が狭くかたくなになっていくのだろう。何に対してもイライラし、文句をブツブツと言い続けるだろう。

 でもきっと僕はそういうことを表には出さない。温厚と物静かだけでなんとか生きてきた人間だからそういうことはひた隠しにして生きる。

 だけどある時一気にそれらが爆発する。叫ぶのか走り回るのか投げ飛ばすのか叩き割るのか知らないけど。

 「ギャ〜〜〜〜〜〜! 死ねぇ〜〜〜!」とか言ったりして。

 そしてみんなは言う。

 「そういう人だったんだ。全然知らなかった。あぶない人だったんだ」

 僕が悪いんじゃない。トライアウトが悪いんだ。

 

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2009年10月29日

ブーツ

 眠れない。睡眠導入剤を飲んでもあまり効かない。早くあの事件の真相を知りたい。


 最近ブーツを履いて歩いている女の人が多い。街で売っているブーツは前から見ることが多いけど、街で見かけるブーツは後ろから見ることが多い。たぶん前から見ると、その女の人とぶつかってしまうからだろう。

 そういうとき、その女の人はどういうふうにして、そのブーツを買ったんだろうと考える。まあ、店で買ったには違いないけど、欲しいなあ欲しいなあ、陽菜ちゃんも履いてるし明奈ちゃんも履いてるしあたしも欲しいなあ欲しいなあと思って買ったのだろうか。

 ブーツを買う場合二つの立場がある。一つは「私にはブーツが必要だ。よし買おう」と買う場合。もう一つは「欲しいなあ欲しいなあ」と思って買う場合だ。

 前者の場合には、
 1、ブーツが必要だと自覚する。
 2、どのようなブーツが自分には合っているのか冷静に判断する。
 3、どこに行けばそのブーツが売っているか検討する。
 4、店に行き購入を実行する。
 という手筈になる。きっぱりとしている。

 後者の場合には、
 1、陽菜や明奈がブーツを履いているのを見る。
 2、あたしも陽菜ちゃんや明奈ちゃんみたいなブーツが欲しいなあと思う。
 3、ブーツが欲しいなあ欲しいなあと何日も考える。
 4、ファッション雑誌かなんか見てあたしにはどんなブーツが似合うのか考えに考える。
 5、店に行って迷いに迷う。無意識のうちに口元に指なんか持っていったりする。
 6、店の店員に「それすっごくかわいいですよ−」かなんか言われて「これにしまーす」とか言って買う。
 というような手筈になるのだけれど、それはとても恥ずかしい事だと思う。

 昔だったら、「おかあさま、幸子のお願い聞いてくださる?」「なあに幸子ちゃん」「わたしブーツが欲しいの。敏江さんも茂子さんも履いてお出かけしていらっしゃるのよ。わたしもああいうブーツを履いてみたいの」「でも幸子ちゃんのご病気はまだ良くなっていないって先生もおっしゃっていたでしょう」「うん、そうだけど、わたしもご病気が治ったらブーツを履いてお出かけしても良いかしら?」「もちろんそうしてよくってよ」「おかあさま、嬉しい、わたし、あ、ゴホッ、ゴホッ!」「あ、幸子ちゃんどうしたの、あ、口から血が!」

 ということで幸子はボンネット型の救急車で郊外の結核療養所に運ばれ、数日後に死んでしまうのだけれど、現在はとても良く効く抗生物質があるからブーツが欲しい女の子もたとえ結核にかかっても死ぬことはなく、店に行ってブーツを買うことができる。

 でも死ななかっただけで、「おかあさま、幸子はブーツが欲しいの」と同じ世界で、これは恥ずかしい事でではないだろうか。一見そうは見えなくても無防備に欲望をあからさまに公開している。


 別に女の人がブーツを買うことを非難しているわけではなくて、これは例でありまして、男にも、僕にも当てはまる。

 僕が新しいiPodを欲しくて「欲しいなあ欲しいなあ、僕、iPodが欲しいなあ。岡田も持っているし菅も持っているし」と思ったとしたら、それは恥ずかしい。そういう意識から消費は始まるのだろうけど「欲しいなあ、欲しいなあ」という気持ちがチラとでも自覚されたらもうそれは良くない。ましてや人に知られたら恥ずかしい。

 1、自分にはiPodが必要だ。その理由はこれこれだ。
 2、アップルストアに行って実物を見て検討する。
 3、ある日店に行って、迷うことなく「これを下さい」とだけ言って購入する。
 というさっぱりして毅然とした態度が最も望ましい。

 アップルストアでもらったiPodのパンフレットをベッドの枕元に置いて「欲しいなあ欲しいなあ」なんて見ている姿を人に知られてしまったらもうおしまいだ。

 消費ということはとても恥ずかしいことだ。

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2009年10月28日

携帯電話

 ケイタイと言ってはいけない。あれは携帯電話。

 いろいろ事情があって携帯電話の番号を変えたくて、それなら機種も新しくしようかとDoCoMoの店に行ってみた。

 久しぶりに行ったら値段の高いこと。なんでこんなに高いんだろう。

 でも、なんか裏の理由のあるすごく安いものを買うより、高くても正当な価格のものを買う方が、日本経済には喜ばしいという意見もあるから、これで良いのだろうか。

 だいたい僕はカメラとか携帯電話とかコンピュータとかそういう機器が大好きなもので、本当に必要なのかはよく考えてみると疑わしい。

 その昔、厭なことがあると、そういうものを買って心を紛らわせていた時期がある。今もそうだったりして。



 こないだヨドバシカメラに行ったら、ものすごく混んでいた。

 ヨドバシは僕の好きな店の一つで、そこに居るだけで幸せな気分になる。そこにあるのは僕のものではないのだけれど。

 でも、エスカレーターを降りながらよく考えたら、この大きな店にある商品のほとんどは、生活に絶対に必要なものではない。日本のどこが不況なのだろう。



 それで、その携帯電話だけれど、Fを使っているからFの新機種にしようかと思っている。だけどカメラが800万メガピクセル。そんなに必要だろうか。

 すごい!800万ピクセル!とか思って写してみると、写真は細かく写っていても、色調とかコントラストとか安っぽかったりするものだ。でもそれにした。

 いつもカメラを持ち歩くのは面倒だから、これで何かの時には写真が撮れるだろう。大きな事故現場に遭遇したとか、トイレに入ったら誰かが首を吊っていたとか、ツキノワグマがこっちに向かって突進してきたとか、東京駅の16番線ホームで知り合いの会社の専務が和服の女性と抱き合っていたとか。

 でも、結局「ちゃんとしたカメラじゃないとやっぱり駄目だよなあ」と思うのは、わかっているんだけど。



 で、「遼くん」だけど、僕は別に「石川遼」が嫌いなわけではない。

 だけど、なにかおかしいと思う。現実とは思えない。何か大きなものに騙されているような気がする。

 まあ、EXILEが奉祝の歌を歌うほどおかしくはないが。あれは奇異だ。

 しかし、僕が理解できないだけなのかもしれない。僕は心がかたよっているから。

 ほかにも理解できないものといえばいろいろある。

 「小悪魔風サラダ」とか「ハロウィン」とか「石橋貴明」とか「よしもと水族館」とか「オーラの泉」とか、あとなんだ。



 電車の中で、一生懸命化粧をしている女の人がいた。

 以前ならけして隣には座らなかったけれど、最近は心が広くなったのか、隣に座った。

 本を読みながら目の端で感じるところでは、ビューラーを使っているようだ。

 電車が大きくガタンと揺れてビューラーを持つ手にぐっと力が加わり、上瞼と眼球の間にビューラーが深く深く突き刺さってしまい「ギャー!」とのけぞって獣のような咆哮をを上げ、どうしたどうしたと周囲の人が不審な目で見る中を立ち上がって、膝から化粧ポーチを落とし化粧道具を電車の床に散乱させ、「目が目が・・・」と言いながらふらふらとビューラーが突き刺さったままの目から血を流し、つり革が見えないもんだから泳ぐようにして、あたり構わず手を差し出して歩くようになったらどうしたもんだろう、そうなったら本当に気の毒だ、僕は彼女のために何をしてあげられるのだろうと考えながら本を読んでいたけど、何事も起こらずいつまでも化粧をしている。

 まあ、それもいいだろう。しかし僕はやはり電車の中での化粧はあまり好まない。

 でも、もし息子がこういう女の人を「この子と結婚したい!」と連れてきたら、「どうしておまえはそういう不埒な考えを持つようになったんだ!そんな人間に育てた覚えは無い!今日限り勘当だ!」と息子をしかりつけ。「けがらわしい!」と言って玄関から雨の中へその女を蹴転ばし、仰向きに倒れたところを「思い知ったか!」と言って雨に濡れて膨れあがった下腹を思い切り下駄でぎゅうと踏みつけてやればいい、などとは考えない。

 その女が川に落っこちて「助けてー!」と流れながら叫んでいるところに通りかかったら、「君こないだ電車で僕の隣でお化粧してなかったっけ?」と聞いて、「ああいうことはしないほうがいいと思うよ」とゆっくり遠くに流れて行って見えなくなるまで親切に人の生き方を諭してあげればいい、などとは想像しない。

 冬の冷たい雪の夜、ランプの灯りの下で藁縄を撚って草鞋を作っているとき、「とんとん」と板戸をたたいて「なにか食べ物を恵んでください」と老婆になったその女が訪ねてきたときには「ああ、たしか40年前、あんたは、電車の中でわしの隣で化粧をしていたなあ。あんなに一生懸命してた化粧も、その年になっては何の意味もなかったなあ。悪いけど、あんたにあげるめしはないんじゃよ」と言って、パタンと板戸を閉めればいいなどとは夢見ない。
 

kami133 at 07:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2009年10月25日

選挙

 神奈川の参議院議員補選。迷いに迷って期日前投票に行った。

 まったく投票する意志はなかったのだけれど、棄権というものはしたことはなかったし、してはいけないと思っているので。

 先の衆議院選挙の時には、期日前投票所には長蛇の列で、「30分待ち」の状態だった。

 土曜の夕方だったし、すごく並んでいるだろうなあと思って出かけてみたら、一人もいない。そのまま投票所内に入れる感じ。

 誰に入れるか最後まで悩んでいたので、並びながら考えようと思っていたから、あわててしまった。



 それで、まあ、投票したのだけれど、みんな知らない人だし、政見読んでもどうも意味ない気がしたし。実にいい加減な根拠で投票してしまった。

 今日がホントの投票日だけれど、投票率は低いだろうなあ。30%台の低めと言ったところではないか。



 選挙のあと食事に行ったら、わんわんうるさいグループが居る。

 もう大声でしゃべりまくっている。後ろでしゃべっているから見えなかったんだけど、20歳ぐらいの人たちかと思った。

 どういう人だと思って振り返って見たら30歳前後の4人のおばさんのグループ。

 大きな声で話すというのでなく、叫びあっている感じ。

 「それで、トシがこう言うのよ!」トシって誰だろう。

 普通大人になってから知り合った人は呼び捨てにはしない。ということは、「トシ」は若いときからの知り合いだろう。「トシ」でその4人の中で通じ合っているんだから、「トシ」を含めた5人は、若いときからの知り合いなんだろう。

 おそらく彼女らは10以上前から友達なんだろう。僕はそういうことを考えながらカキフライ定食と豆腐とチリメンのサラダを食べていた。

 まあ、半分酔っ払っているんだろうけど、楽しいんだろうからいいか。

 でも、近づいていって、「うるさあーーーーーーーーーーい!!」と叫んでやろうかと思った。

 おばさんを直接批判をするということは、世の中で決してしてはいけない3つの行為の中の1つだが(あとの2つは、核兵器の使用と営利目的の誘拐)、それをしたい衝動にかられた。



 でも、僕は、音に関して敏感すぎるのかもしれない。

 しかし、僕と同じようにあるものを「うるさい」と感じている人もいることは確かだ。

 僕が「うるさいなあ」と思ってそちらを見ると、僕と同じように「うるさいなあ」という目でそちらを見ている人がいるからそれはわかる。

 そういう時は、一人で「うるさーーーーい!」と言いに行くのは怖いから、「あなたもうるさいと思いますか。一緒に行きましょう」と言おうかと思うけど、もしかしたらその人は、「いいなあ、私もあの人達と一緒に喋りたいなあ」と思っているかもしれないから、迂闊には誘えない。

 

 それで選挙だけれど、誰が当選しても構わないという感じだ。1人以外は。

 まあ、その1人は絶対に当選しないけど。

kami133 at 09:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2009年10月23日

大声

 脳の本を買って電車の中で読んでいるんだけど、昨日は加藤和彦の事が知りたくて、週刊新潮と週刊文春を買ってしまった。今日はバスを待つ間本屋に寄ったら、読んだことのない東海林さだおの文庫本があったので買ってしまった。

 まったく読む本に脈絡がない。



 しかし思うんだけど、どうして最近の若い人は、公衆の面前、人のいる場所で大声で喋るんだろうか。大声で笑うんだろうか。

 「最近の若い奴らは」という言い方は、年寄りのワンパターンだというけれど、これは違うと思う。

 以前は、そういう若い人はあまりいなかったと思う。まあ、おじさんおばさんだって公共の場で大声で話しているじゃないかと言われれば、そういうこともあるけど。

 でも、少なくとも「大学生」は、今よりずっと寡黙だった。

 夜の街で酔っ払って大声出す大学生はいたけど、昼間は寡黙だった。

 さらにはっきり言えば「思考」している人は寡黙だった。

 そして大学生は常に「思考」していた。それは「悩み」だったのかもしれないけど。

 元気があるということと、うるさいと言うことは全く違う。



 人がいるところで大声で話すものではないということは、「常識」あるいは「マナー」の問題だ。何故かと説明しようとすれば、それは理屈は言えるけど、そういう常識の無い人に理屈を言っても理解できないだろう。習慣化した肉体で理解出来ない。

 それはおかしいと言うときには言うけれど、正直、はり倒したい。

 でも暴力はいけないな、なにがあっても。

 しかし、20過ぎまでそうやって育ってきてしまった人間に、話して通じるものだろうか?

kami133 at 22:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!